ドレスデン時代はしかし、家庭生活の面では充実していたようだ。東独の生活水準はソ連よりも高く、勤務先に近い快適な社宅を与えられていた。おいしいビールを楽しみ、週末にはマイカーでのドライブを満喫した。
妻のリュドミラ(2014年に離婚)との間に次女カテリーナが誕生したのもドレスデンだった。この頃、プーチンは11キロも体重が増えたという。
余談ながら、リュドミラはアエロフロート航空の客室乗務員(CA)出身で、プーチンがレニングラードで勤務していた頃に友人の紹介で知り合った。
プーチンの大統領2期目にあたる07年には「リュドミラは精神的に不安定になっており、人前に出せる状態でない」との情報がモスクワの政界で流れていた。プーチンの愛人女性が03年に「隠し子」を出産していたとの調査報道が20年に出ており、07年当時のリュドミラはプーチンの女性問題で悩んでいたのかもしれない。あるいは、リュドミラにとってもドレスデン時代こそが幸せの絶頂で、プーチンの速すぎる出世と生活の変化についていけなかったのかもしれない。
「KGBにもソ連にも将来はない」プーチンが悟った瞬間
プーチンの東独での生活に終止符を打ったのは1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊だった。ベルリンから約160キロ離れたドレスデンでも、秘密警察に対する積年の恨みを爆発させた群衆がシュタージやKGB支部に押し寄せた。
プーチンは支部に保管されていた機密書類を連日燃やし、群衆の建物への侵入は阻止した。しかし、「KGBにもソ連にも将来はない」と悟り、故郷レニングラードに戻ることを決意した。
失意の帰国、改革派官僚への華麗な転身
失意の中で帰国したプーチンは90年1月、KGBに籍を置いたまま母校レニングラード大の学長補佐官という職に就く。いわば大学での目付け役だった。
そして5月、決定的な転機が訪れた。当時、改革派の旗手として高い人気を誇っていたサプチャク・レニングラード市ソヴィエト議長の補佐官に迎えられたのだ。
サプチャクはレニングラード大の元法学教授だった。プーチンとサプチャクに直接の師弟関係はなかったが、法学部時代の友人にサプチャク陣営を手伝ってくれと声をかけられたのだという。改革派官僚への華麗な転身というほかない。
91年6月には市の渉外委員長、94年3月には第1副市長となり、サプチャク市長の右腕として活躍した。この頃のプーチンが辣腕を振るったのは外資系企業の誘致だった。市場経済の仕組みが整っていない中、投資重点地区を設けるなどし、欧州の銀行支店やコカ・コーラといった世界的企業の呼び込みに成功した。