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落合陽一、ハラリは「夢想的で危険」東浩紀が斬る“シンギュラリティ”論に潜む“選民思想”

2022/04/20

source : 文藝春秋 2022年5月特別号

genre : ニュース, 社会

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 なぜ人々はかくもドタバタしてしまったのか。高度医療への過剰な期待、SNSでの無責任な情報拡散、最初の症例報告があった中国への不信感、ハリウッド映画に代表される扇情的な映像文化の影響など多くの原因を挙げることができるだろうし、今後そちらについても検証が進むことだろう。現代社会は情報依存社会なので、そもそもパニックに弱いともいえる。

 そのうえでぼくがここで考えたいのは、その「ドタバタ感」のもつ思想史的な意味である。

 結論からいえば、ぼくにはそれは、この四半世紀、情報技術とともに勢力を拡大し続けてきた過剰な人間信仰と技術信仰に対して、大きな冷や水を浴びせかける経験だったように思われる。

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「ハラリと落合陽一」筆者の東浩紀さん

「シンギュラリティ」という物語

 どういうことだろうか。あまり指摘されないのだが、2010年代は思想史的には「大きな物語」が復活した時代だったといえる。

 ここでいう「大きな物語」とは、人類の歴史には大きな流れがあり、学問にせよ政治にせよ経済にせよ、その終極=目的(エンド)に奉仕するのが正しいという考えを意味する。ひらたくいえば、人類は進歩しており、それについていくのが正しいという考えかただ。20世紀においてはマルクス主義がそんな大きな物語として機能した。マルクス主義は、まさに人類社会の終極=目的として、資本主義の終焉と共産主義の到来を謳いあげた思想だからである。

 けれどもそのような歴史観は、1970年代あたりから批判されるようになった。そのひとつが現代思想でポストモダニズムと呼ばれる動きだ。

 そして20世紀が終わるころには、そもそもソ連が崩壊したこともあり、大きな物語のような発想は現実をなにも説明しないし、政治的にも害が大きく支持するべきではないと考えられるようになった。1971年生まれのぼくは、まさに「大きな物語の終わり」を叩き込まれた世代にあたる。人類の歴史にまっすぐな進歩なんてないし、なにが正しくなにがまちがっているかについても単純に判断できるわけがない。それがぼくの世代の学者の本来の常識だ。

 ところが21世紀に入ると、驚いたことに、そんな大きな物語の発想が新たな装いのもとで復活し始めた。

 ただしこんどの物語の母体は、マルクス主義のような社会科学ではない。情報産業論や技術論である。信奉者も政治家や文学者ではなく、起業家やエンジニアだ。ひとことでいえば、文系の大きな物語が消えたと思ったら、理工系から新しい物語が台頭してきたわけだ。