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 ぼくにはそれは、かつて1960年代や1970年代に、カーツワイルと同じように「未来学」を喧伝していた人々が犯した誤りを、無自覚なまま繰り返しているようにしか思えない。当時もまた、ライト兄弟の初飛行から半世紀強で人工衛星が打ち上げられたのだから21世紀にはスペースコロニーが浮かんでいるにちがいないし、アインシュタインが相対性理論を発見してからわずか40年で原爆ができたのだから核融合もすぐにできるにちがいないと、まことしやかに語られていた。技術はいままでこれだけの速度で進歩してきた、だからこれからも同じように進歩するにちがいないといった成長曲線の外挿の発想は、基本的にたいへん怪しいのである。

落合陽一の主張に潜む倫理的な問題

 読者のなかには、いやいや、情報技術の成長の本質はまさにそのような常識を超えるところにあるのだ、だからそんな懐疑を抱いても意味がないのだと反論するかたがいるかもしれない。実際、IT関連のビジネス書にはしばしばそのようなことが大まじめに書かれている。常識を捨てて信じるのが大事といわれれば、なにも返す言葉はない。

 とはいえ、たとえそこで百歩譲って彼の予測のいくつかが正しいと認めたとしても、カーツワイルがたいへん夢想的な人物であることは見逃してはならない。前掲書を最後まで読み通せばわかるように、彼はそもそもシンギュラリティの到来を、人間の身体を脱ぎ捨てた超知性が太陽系を超え光速を超えて広がり、やがては宇宙全体を「覚醒」させるというおそろしく壮大な歴史のなかに位置づけている。人工知能が人間の脳を超えるのは、彼の考えでは知性の宇宙的進化の第一歩にすぎないのだ。これはどう考えても政治やビジネスの指針となる話ではない。

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 これはカーツワイル自身への批判ではない。『シンギュラリティは近い』は、21世紀に蘇った神秘思想の例として読めば十分興味深い書物だ。カーツワイルはおそらくは、ニコライ・フョードロフ(19世紀ロシアの思想家)やティヤール・ド・シャルダン(20世紀前半のフランスの思想家)に連なるような、「宇宙主義」の思想家として位置づけられるべき人物だ。

 問題は、そのような神秘的な主張が、あたかも堅実な根拠に基づく未来予測のようにして、世界的に影響力のある政治家や経営者によってさかんに議論され続けていたことのほうにある。それは、ほとんど現実味のない共産主義世界革命の到来について、政治家や哲学者が大まじめに議論し続けた20世紀半ばの状況にそっくりではないだろうか。

 日本の例も挙げておこう。2010年代に強い影響力をもった思想家に落合陽一がいる。

エンジニア/実業家/知識人と多彩な顔を持つ落合陽一氏

 落合は哲学的な文章を発表するだけでなく、ベンチャー企業を経営し、エンジニアでアーティストでもあるという新しいタイプの知識人である。行政にも深く関与し、2025年の大阪万博ではパビリオンをまるまるひとつ担当するといわれている。そんな彼は2018年に『デジタルネイチャー』という著作を発表している。

 デジタルネイチャーは「計数的な自然」を意味する落合の造語である。近い将来、生活環境のあらゆるところにセンサーが張りめぐらされ、人流も物流もすべてがデータ化され、ネットワークを介してアクセスされ分析されるような時代がやってくる。そのときぼくたちは、目や耳で捉えることができる物理的環境とはべつに、デバイスを通じてしか知覚できないデータ環境も新たな「自然」として認識することになる。それがデジタルネイチャーだ。落合は、これからの政治やビジネスはこのデジタルネイチャーの利活用に敏感でなくてはならないと説く。

 この主張に異論はない。データ環境の重要性は仮想現実や拡張現実といった言葉で広く認識されている問題でもある。ただし落合はその誕生に、文明論的なカーツワイルのシンギュラリティと同じく、きわめて大きな文明論的な意味を見出している。そしてそこで展開される議論には倫理的な問題がある。