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 落合によれば、デジタルネイチャーが誕生することで、人類は不安定な市場原理に頼らずとも資源を最適に配分できるようになる。生産力は飛躍的に増大し、人間ひとりひとりの特性を分析して最適な社会的役割を提供できるようにもなる。そこまでは問題ないのだが、つぎに落合は、そのとき人類は、ひとにぎりの先進的な資本家=エンジニア層(AI+VC層)と、残り大多数の労働から解放された大衆層(AI+BI層)に分裂することになるだろうというのである。「AI+VC」は、人工知能に支援されてイノベーションに挑むベンチャーキャピタル(VC)の担い手を意味する落合の造語で、「AI+BI」のほうは、政府によるベーシックインカム(BI)で衣食住を保障されつつ、人工知能の勧めにしたがってそこそこの幸せを追求する生き方を意味するらしい。

夢想的で、政治的に危険なヴィジョン

 ぼくにはこの未来社会像はあまりに夢想的すぎるように思われるし、そもそも実現するとしても悪夢にしか思えない。それは人類を選良とそれ以外に分ける社会像にほかならないからである。

落合陽一著『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(PLANTES/第二次惑星開発委員会、2018年)

 しかも厄介なことに、落合は同書で、デジタルネイチャーは人類をまさにそのような古い道徳観や倫理観から解き放つものなのだと主張し、そんな懸念を振り払ってしまうのである。彼のヴィジョンによれば、未来の人類は、というよりもその一部の選良層(AI+VC層)は、もはや個人の幸福のような小さな目標には関わらない。かわりに大きな視野でイノベーションを進め、「コンピュータがもたらす全体最適化による問題解決」によって種全体の幸福を実現する。だから、自由や平等のような古い考えにしばられる必要はないというのだ。落合は『デジタルネイチャー』で、来るべき世界においては「人間」の概念こそ「足かせ」なのであり、人々は「機械を中心とする世界観」に対応しなければならず、「全体最適化による全体主義は、全人類の幸福を追求しうる」のだから「誰も不幸にすることはない」とはっきりと記している(PLANETS刊、181、219、221頁)。行政にかかわる人間が抱く思想としては、これはいささかひとを不安にさせる。

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 これもまた落合自身への批判ではない。彼のエンジニアおよびアーティストとしての業績には敬意を払いたい。しかし同時に、彼の描く未来像が、カーツワイルほど壮大ではないにしても、同じくらい夢想的で、政治的にはより危険でもありうることにはもう少し注意が払われてよいのではないかと思う。

 けれども2010年代には、そのような検討は行われず、政治家を含め、多くのひとが彼のヴィジョンを驚くほどすんなりと受け入れてしまっていた。それもまたぼくには、先進的な左派知識人の発言というだけで、多くの矛盾や暴力性が見過ごされてしまっていた20世紀半ばの状況を思い起こさせる。

第2の大きな物語が席巻する時代

 このように2010年代は、情報産業論を背景にした夢想的な文明論が、先進的な起業家やエンジニアだけでなく、政治やビジネスの現場にも大きな影響を及ぼした時代だった。

東浩紀氏による「ハラリと落合陽一 シンギュラリティ批判」の全文は「文藝春秋」5月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。※本論は雑誌『ゲンロン13』に掲載予定の論文の一部です。

文藝春秋

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ハラリと落合陽一 ――シンギュラリティ批判――