「AIが人類を超える」――神秘的で夢想的な主張は危険だ。批評家/作家の東浩紀氏による「ハラリと落合陽一 シンギュラリティ批判」を一部公開します。(「文藝春秋」2022年5月号より)
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専門家もパニックに陥っていた
パンデミックは3年目に入った。オミクロン株の流行はいまも進行中だ。
この混乱を後世がどう総括するのか、現時点ではまったく予想がつかない。初期にはこれをきっかけに現代文明は大きく変わるといった言説がメディアを席巻していた。とはいえ、なにごとにせよ当事者は事象を過大評価するものである。終わってみれば意外とあっさりした位置づけになるかもしれない。
ただこの時点でひとつだけはっきりしていることがある。それは現代社会がまだまだパニックに弱いということだ。
新型コロナ感染症は、既存の風邪より致死率が高く感染力も高い。けれども天然痘やエボラ出血熱ほど致死率が高いわけではなく、はしかほど感染力が高いわけでもない。若年層では無症状のまま治癒する例も多く、一瞬で社会が崩壊するといった類の感染症でなかったことはたしかだ。
にもかかわらず、今回は世界中で恐怖心を煽る報道が相次ぎ、各国は超法規的な強権発動を繰り返さざるをえないことになった。そして良心的な科学者や医療従事者の冷静な声は、大衆の増幅された恐怖を抑えるためにはあまり役に立たなかった。
否、このパンデミックで明らかになったのは、むしろ非常時には科学者や医療従事者もまたパニックに陥るということかもしれない。
むろん現代医学の貢献はいくら強調してもしすぎることはない。ECMO(体外式膜型人工肺)の存在は死者の数を大きく抑えたし、ワクチンは感染拡大防止に決定的な役割を果たした。
けれどもパンデミックの初期においては、なにが感染防止に効果的なのかだれにもわからず、感染拡大の予測も正確でなかったため、専門家による最悪の想定や過剰な統制要求が拙速に採用される傾向にあった。緊急時だからやむをえないとの意見もあろうが、国境封鎖や都市封鎖(ロックダウン)、外出禁止といった強力な私権制限が、リベラリズムを信条とする諸国において、法的な根拠や経済的な損失がほとんど議論されず将棋倒し的に導入されてしまったことには大きな問題がある。とくに日本では、根拠すら怪しい政策が「自粛」の名のもと場当たり的に発出され続けてきた。後世から振り返ったとき、今回のパンデミックでもっとも記憶されるのは、医学の勝利でも人類の叡智でもなく、この「ドタバタ感」なのではないか。