一介の町工場だった東京通信工業を世界のソニーに育てただけではなく、金融の世界に足を踏み入れ世界的な映画会社を傘下に収めるなど、製造業でありながらそうでない道も切り開いてきた盛田だった。だが、その盛田でも若い経営者の決断に、その趣旨に理解を示しながらも、不安を覚えたようだった。
その後、盛田は病に倒れ、“出井ソニー”を見届けることなく他界する。
「ソニーも隕石で滅んだ恐竜のようになってしまう」
出井が、来たるべき時代は製造業の時代ではない、と確信したのは1994年のことだった。
当時、広告宣伝本部長だった出井の姿は米シリコンバレーにあった。米副大統領アル・ゴアが発表するという「情報スーパーハイウェイ構想」を聞くためだった。全米を高速デジタル通信網でつなぎ、インターネットを国のインフラにしようとする壮大な計画だった。インフラが整えば、情報は瞬時に世界を駆け巡る。出井はこの構想に衝撃を受ける。
「(ソニーも)変化しなければ、隕石で滅んだ恐竜のようになってしまう」
インターネットに衝撃を受けた出井は、当時の社長の大賀典雄、副社長の伊庭保に建白書を提出する。この建白書では、「ネットワークを利用した巨大企業の誕生の可能性(現在で言うGAFAであろうか)」「通信ビジネスを利用した統合者の成長」「メディアは一方通行から双方性に移行する(対話型のパーソナルメディア)」などが記されていた。
そして、この翌年、出井は創業世代とは無縁の、しかも理系ではない人間として社長に選ばれる。本人が一番驚いたというように、出井は前年に常務に昇格したばかりの“末端”役員の1人に過ぎなかった。
社長交代を発表する記者会見で、出井選出の理由を聞かれた大賀が「消去法だった」と述べるなど、出井選出に異論があったことを暗に認める発言をしている。それ自体が異例のことではあるのだが。
「有形資産」から「無形資産」へ
社長となった出井のとった方策はわかりやすかった。従来のソニーのコアビジネスである「エレクトロニクス」はもちろんだが、「映画」「音楽」「ゲーム」もコアビジネスと明確に定義づけた。それはインターネットの時代、デジタルの時代には従来の「有形資産」から「無形資産」への転換が起こると確信していたからだった。つまり、「ビッグデータ」「特許」「情報」「ブランド」「アルゴリズム」……こういったものが「無形資産」だが、出井は意識して「エレクトロニクス」主体のソニーのビジネスモデルを転換していった。
世界を席巻する「グーグル」「アップル」「アマゾン」などはまさに「無形資産」時代の申し子である。