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「場内放送、選手の名前、間違ってないか?」

「ただいまのヤクルトのブランコ選手の打球に対して、中日の落合監督が5分以上の抗議をしたので遅延行為による退場といたします」

 2日後に事務所に呼び出され、上司と映像を確認しました。

「問題だ」

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「でも、あの映像の角度は……」

「君がそう見えたら仕方ない。だけど場内放送、選手の名前、間違ってないか?」

 結局、始末書でした。

星野仙一監督の「戦う集団」

 私がプロの審判になる5年前、1987年。中日の宮下昌己投手が巨人のクロマティ選手に死球を与えたことに端を発した乱闘事件。熊本・藤崎台球場。中日の星野仙一監督が、あの巨人の王貞治監督のユニフォームをつかんだシーンは衝撃的でした。

 時は流れ2002年、竜のユニフォームを、虎のユニフォームに着替えた星野仙一監督の1年目のこと。阪神の田中秀太選手がホームスチールを敢行したが、アウト。キャッチャーのブロックにきつく体当たりをしたということで、乱闘が始まったのです。

星野仙一監督 ©文藝春秋

 阪神の星野監督と、中日の仁村徹コーチが大喧嘩になった。「徹、オレが下がるから、お前も下がれ」。星野第一次政権1987年優勝時の二番打者で、本来は師弟関係だったのが、星野監督がライバル阪神の監督になって、おかしな構図でした。

 当時は現在と違う環境だったので、一部の選手は本気モードで殴り合っていました。

 周りの選手は「ヤバい。きょうマジだから、近寄るな。“二次災害”が起きる」。

 私は星野監督に抗議を受け、激高され、ある意味、審判として鍛えられました。星野監督のチームは中日であっても阪神であっても緊張感がありました。結束力があると表現すればいいのか、乱闘が始まると集まるのが早かったのです。

 特に阪神の1年目はすごかった。血気盛ん。違う意味で本当に「戦う集団」でした。「野球で戦ってほしいんだけど……」と私はひそかに思っていました。