財務省は朝日新聞報道を追認していくようになる。財務省の言う通りに政策が決まらない新たな現実を、経済部はなかなか受け入れられないようだった。政策の主導権は明らかに自民党や財務省から首相官邸に移った。その意味で、小泉政権の誕生は「政権交代」といえた。省庁ごとの縦割りだったマスコミ各社の取材体制も変革を迫られたのである。
突如終わった「竹中番」
私は竹中番記者である限り、特ダネを書き続けられる気がした。その日々は突如として終わる。私はある日、「抵抗勢力」のドンと言われた自民党の古賀誠元幹事長の番記者に移るように告げられたのだ。
背景には、政治部と経済部の「手打ち」があった。それまでは政局は政治部、政策は経済部という仕分けが成立していた。政治家は政局に明け暮れ、政策は官僚が担うという時代が続いたからだ。小泉政権はそのシステムを壊した。
政策は官邸主導に移り、総理が指名した竹中氏のような大臣が仕切る新たな政策決定プロセスが整いつつあった。その時代に「政局は政治部、政策は経済部」という縦割り取材は通用しなかった。
両部は、①国会記者会館の朝日新聞の部屋に両部のデスクを常駐させて連携を密にする、②官邸サブキャップに経済部記者を配置する――などの協力態勢で合意するとともに、確執の元凶であった私を「竹中番」から外すことで折り合ったようだ。この社内政治によって私は竹中番を卒業したのである。
私の竹中氏取材は、権力者の懐に食い込んで情報を入手する旧来型のアクセスジャーナリズムの典型である。竹中氏の提灯記事を書いたつもりはないが、竹中氏らが抵抗勢力との戦いを有利に進めるために番記者である私(朝日新聞)を味方に引き込み情報を流したのは間違いない。朝日新聞はそれを承知のうえで、情報の確度を精査して主体的に報道すべき事実を判断して記事化していたが、結果的に竹中氏を後押しする側面があったのは否めない。
旧来の政治・経済報道ではこのように取材相手と「利害を重ねる」ことで情報を入手できる記者が「優秀」と評価されてきた。しかし、アクセスジャーナリズム自体に厳しい視線が向けられる時代になった。
権力者への密着取材が不要とは思わないが、読者の不信を招かないように取材手法や取材経緯をできる限り透明化したうえで「このような記事を書くために密着取材している」と胸を張って言える権力監視報道を具体的に示し、読者の理解と信頼を得ることが不可欠になったと思う。