私は竹中氏と毎日膝をつき合わせる取材を通じて日本の経済政策はどういうプロセスで決定されていくのかを生々しく理解するようになった。竹中氏は自らの改革に立ちはだかる財務省や自民党政調会長だった麻生太郎氏に対する不満を日増しに強めた。竹中氏の「財務省嫌い」や「麻生氏嫌い」は今も変わらない。
竹中氏は当初、敗れ続けた。だが、くじけなかった。自民党や財務省が水面下で主導する政策決定過程をオープンにして世論に訴えた。経済財政諮問会議の議事録を公開して「抵抗勢力」の姿を可視化したのだ。これは的中した。マスコミは次第に「抵抗勢力」を悪者に仕立て始めた。そして小泉首相は「竹中抵抗勢力」の闘いが佳境を迎えると歌舞伎役者よろしく登場し、竹中氏に軍配を上げたのだった。
政治の地殻変動が始まった。政策決定の中心が「自民党・霞が関」から「首相官邸」へ移り始めた。竹中氏の影響力は急拡大し、政治家や官僚が頻繁に訪れるようになった。竹中氏と真柄氏と私の素人3人組の作戦会議もファミレスから個室へ場所を移した。経産官僚だった岸博幸氏や財務官僚だった高橋洋一氏、学者から内閣府に入っていた大田弘子氏ら竹中氏を支える裏部隊も出来上がっていった
彼の功と罪
ふと気づくと竹中氏は小泉政権の経済財政政策のど真ん中にいた。財務省からその立ち位置を奪ったのである。そして、政治部記者として竹中氏を担当していた私は、新聞社の長い歴史を通じて独占的に予算編成や税制改革を報じてきた経済部の財務省担当記者たちに取って代わり、予算や税制をめぐる「特ダネ」を連発した。
経済部記者が事務次官ら官僚をいくら回っても情報は遅かった。すべては竹中氏ら官邸主導で決まり、経済部記者が財務省取材でそれを知るころには私が朝日新聞紙面で報じていたのである。業界用語でいう「圧勝」の日々だった。各社の経済部は慌てて竹中氏を追いかけ始めたが、すでに遅かった。竹中氏は時間に追われ、初対面の記者といちから関係をつくる暇はなかった。
私は「竹中氏に食い込んだ記者」として知られるようになり、政治家や官僚、そして財界からも「竹中大臣を紹介してほしい」「竹中大臣の考えを教えてほしい」という面会依頼が相次いだ。経済知識もなく竹中氏と会食やお茶を重ねていただけなのに、わずか数ヵ月で私の境遇は様変わりしたのである。
これは権力に近づく政治部記者が勘違いする落とし穴でもある。私は茨城県警本部長に食い込んだ昔のサツ回り時代を思い出して自分を戒めるようにした。
朝日新聞社内で、政治部と経済部の関係は緊張した。私が予算や税制の特ダネを出稿するたびに財務省記者クラブを率いる経済部のキャップは「財務省は否定している」と取り下げを求めた。渡辺官邸キャップはそれを聞き流し、真夜中の1時を過ぎて新聞の印刷が始まるころ「そうは言っても、もう明日の新聞は降版しちゃったよ」と電話を切るのだった。