いきなりですが、皆さん。

「ヤクルトの歴代最高一塁手は?」

 と聞かれたら、誰と答えますか?

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 50代以上の方々から支持を集めそうなのが、大杉勝男さん。

「大杉! あの月に向かって打て!」の真意

 1975~83年までの9年間ヤクルトに在籍し、78年の球団初の日本一にも大きく貢献。セ・パ両リーグでホームランバッターとして活躍し、83年には史上初の両リーグでの1000本安打を達成。

「大杉! あの月に向かって打て!」という名言。

 この言葉だけを聞くとほぼ全ての人が、「思いっきりバットを振ってホームランを打ってこい!」という意味だと思っちゃいますよね。

 しかし実際はというと……

 1968年シーズン中に打撃フォームを崩していた大杉。ある試合で自信なさげにバッターボックスに向かっていく大杉に何か声をかけようとしていた打撃コーチの飯島滋弥。ちょうどその時、中秋の名月がバッターボックスから見える低い位置に昇っていたのを見て、「アッパースイングになりすぎず、できるだけ水平に。レベルスイングで振りなさい!」という想いでかけた言葉だったそうです。

 1978年日本シリーズで阪急・上田監督が猛抗議をしたあの疑惑のホームラン。

 1983年の引退試合のあいさつでは、「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打。この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません」という言葉を残し、引退会見の席でも、「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」と一句を詠んだりと、数々の記録と記憶に残る選手であった事は間違いないでしょう。

 しかし、そんな大杉さんと同じぐらいのインパクトを持つ一塁手がいます。

ヤクルト史上もっともインパクトを残した一塁手

 それは、1999~2002年までの4年間、不動の4番として活躍したロベルト・ペタジーニ。

 MVP1回、ホームラン王2回、打点王1回。4度のベストナインに3度のゴールデン・グラブ賞。来日1年目で史上初となる【打率3割・40本塁打】という成績を残します。

 初球打ちにもめっぽう強く、2001年シーズンでは初球打率.490ととんでもない数字を残します。

 松井秀喜との熾烈な本塁打王争いの中で起きた、上原浩治のあの涙の敬遠。

 そして、25歳年上のオルガ夫人。

 しかも、オルガ夫人は元々はペタジーニの友達のお母さんだったという事実を知った時のあの衝撃。小学生の頃からの純愛を実らせたという、これぞホントの初球打ち(笑)。

 そのインパクトも含めて、ペタジーニは間違いなく歴代最高の一塁手の最右翼でしょう。

燕の名一塁手の系譜に名を連ねる男 ホセ・オスナ

 他にも、広澤克実、畠山和洋といった和製大砲はもちろん、2018年には慣れないポジションながら139試合に出場し.317という好成績を残した坂口智隆。2019年に新人王を獲得した村上宗隆も、この年は一塁手でした。

 しかし、僕は声を大にして言いたい。

 ヤクルトの歴代最高一塁手。それは、ホセ・オスナです。

オスナ

 なぜか。

 その理由はただ一つ。

 それは、6月12日の対ホークス戦。0-0で迎えた3回裏。先頭の松田宣浩がセンターへのヒットで出塁し、打席の甲斐拓也はバントの構え。

 その初球。高橋奎二からの牽制球にヘッドスライディングで帰塁する松田。タイミングは悠々セーフ。そして、松田が立ち上がったその瞬間。ほんの一瞬一塁ベースから体が離れるその一瞬を待っていたかのように、オスナは松田にタッチ。

 何が起きたかわからないという様子の一塁塁審、山路。素早くベンチにリクエストを求めるオスナ。

 リプレイ検証の結果、判定はアウト。

 今季交流戦の歴代最高勝率でスワローズが優勝を決める事ができたのはこのワンプレーといっても過言ではないくらい、大きな大きなプレーでした。