『今年は勝負の年。必ず勝って帰ってくる!!』
昨年オフに帰省した際に、広島に戻る旭川空港で家族にそう宣言した。
広島カープ育成3年目だった持丸泰輝。その言葉通り、シーズン中だった6月18日、見事に支配下選手枠を勝ちとったのだ。育成契約は最長3年という決まりがあり、ラストイヤーを迎えた持丸にとってこの1年はまさに勝負の年。とにかく“勝”にこだわった。
高校時代に父がグローブをオーダーで作ってくれたときに「時には遠回りも必要だけど、夢を曲げずに真っすぐ進んでほしい」という想いを込めて『夢一直線』という言葉を刺繍で入れてくれた。
プロに入ってからも1・2年目はその刺繍を入れていたが、3年目の今季のグローブには『勝』という1文字を入れた。夢のために絶対に勝たないといけない、家族の期待も背負っていた。
「お父さん! キャッチャーになったよ!」
持丸が野球を始めたのは小学校2年生のとき。きっかけは社会人野球をしていた父・知己さんの影響だった。「お父さん、野球がやりたい」。息子・泰輝から父にそう伝えた。
「本当に本当に嬉しかったです。息子が自分から野球をやりたいって言ってくれるなんて。正直もうこれだけで親孝行です(笑)」と知己さんは当時を振り返る。
実は小学生の頃からずっとキャッチャーをやっていた知己さん。息子が野球を始めてすぐに「お父さん! キャッチャーになったよ!」と笑顔で家に帰ってきたときの表情は未だに鮮明に覚えている。
そんな知己さんから見た息子・泰輝の性格は、一言で表すと「我慢強い子」。練習でも挫けるといったことが一度もなかった。ある日の試合当日に持丸が高熱を出したことがあり、「熱があるんだから休みなさい」と試合を休ませようとしたが、「いや、俺でる。俺がいなかったら試合にならない」と意見を曲げずに、結果薬を飲みながら試合に出場した。
そんな持丸だが、過去に一度だけ小学生のときに「野球を辞めたい」と母親に伝えたことがあった。普段、一切弱音を吐かない持丸が初めて野球で壁に当たったときだった。その話を父・知己さんが知ったのは息子本人からではなく妻からだった。
なぜ持丸は父親には相談せずに母親だけに内緒で伝えたのか、これには理由があった。それは「父親が野球をすごく好きだということを知っていたから、自分が父の大好きな野球を辞めたいと言ったら傷つけてしまうんじゃないか」。そう考え、父には言わなかった。いや、言えなかった。
「野球を辞めたい」と悩んでいた息子のことは見守ることにした。するとすぐに仲間が迎えに来た。仲間のお母さんたちも「泰輝くん辞めないで」と家に来てくれた。大切な友人たちが再び、持丸を野球の道へと戻してくれたのだった。
ただ、野球の相談をあまりしてこない息子に対して少し寂しさもあった。
「普段から野球のことでは一切電話がかかってきたことがないです。この前電話をしたときも『保険の加入ってどうしたらいい?』でした。僕は泰輝と野球の話をしたいので少し寂しいですね(笑)。ただこの前チャンスがあったんですよ。泰輝が20歳になって年末実家に帰ってきたときに『ちょっと飲むかい?』って初めて僕からお酒を誘ったんです。本当はゆっくり飲みながら野球の話を沢山したかったのに、泰輝がジュースみたいに飲んですぐに酔っ払って寝ました。結局野球の話は全然出来なかったですね(笑)」