きょう12月28日は、昭和を代表するスター俳優・石原裕次郎の誕生日だ。1934(昭和9)年生まれの裕次郎は、87年7月17日に52歳で死去、今年で没後30年を迎えた。去る8月には、彼が幼少期をすごした北海道小樽市に1991年にオープンして以来、多くのファンが訪れていた石原裕次郎記念館が惜しまれつつ閉館している。

石原裕次郎(1959年撮影) ©共同通信社

 なお、いまから60年前、裕次郎の24歳の誕生日だった1957年12月28日には、空前の大ヒットとなった主演映画『嵐を呼ぶ男』が封切られている。この映画の主題歌となった同名曲のほか、彼は歌手としても「銀座の恋の物語」「夜霧よ今夜も有難う」など数々のヒット曲を生んだ。

プロデューサーとしての手腕も発揮したドラマ『西部警察』

兄・石原慎太郎(左)と(1958年撮影) ©文藝春秋

 1979年に放送が始まったドラマ『西部警察』で裕次郎は、サウンドトラックにも力を注ぎ、バンドをフル編成で組むなど、当時の常識からすれば、映画音楽にかける倍以上の費用を投入したという。同番組の初代のエンディングテーマには、なかにし礼作詞、今年亡くなった平尾昌晃の作曲による「みんな誰かを愛してる」が採用された。このタイトルも裕次郎が自ら決めたものだった。このころテイチクで裕次郎を担当していたディレクターの高柳六郎によれば、じつはこの曲は初め別のタイトルで進められていたものの、スタッフ全員がいま一つ納得がいっていなかったという。しかし、みな忙しさにかまけて、推敲にまで気が回らなかった。そこへ土壇場になって裕次郎本人から提案があり、異議なしで決まったのだ。これについて高柳は「このあたりの、すみずみまでの神経の配り方も、プロデューサーとして、やはり超一流だった」とのちに振り返っている(高柳六郎『石原裕次郎 歌伝説 音づくりの現場から』現代教養文庫)。

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 裕次郎は1963年に日活から独立して石原プロモーションを設立して以降、映画『黒部の太陽』、ドラマ『太陽にほえろ!』などをヒットさせていた。それを支えてきたのはやはり、音楽も含め、細かなところまで行き届いた気配りであったのだろう。