むらむらむら……。衝動が湧き上がる現象にこの「むらむら」という言葉を当てるのって言い得て妙だと思うのです。気持ちがぐいぐい上昇するリズムと語感。特に色情に「むらむら」が当てられることが多いですが、怒りだって、悲しみだって、やる気だってむらむらと湧いては人を魅力的に、そして少しバカにさせるものですね。本にまつわるむらむら話をここで収集してゆければと思います。
私が本を読んでむらむらした記憶があるのが吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」でした。漫画版も発売されて今また大ブームになっていますが、そもそも教育に良いということで学校の先生が子供たちに薦めてきた本なんですよね。私も小学4年生の時に好きな学校の先生にオススメされて読んでいました。
で、この本は主人公のコペル君(15)が叔父さんとノートをやりとりすることで精神的に成長してゆくというお話ですが、ものの見方や考え方をぐいっと俯瞰に持っていってくれる名著であることは間違いないのであります。
でも、私は著者が子供たちに伝えたかったことよりも、とにかくこの「叔父さん」が響いてしまった。この叔父さんは真面目で柔軟性があって子供に上から目線ではなく、独身(子供心にここは大切なポイントだった)。そんな魅力的な叔父さんのプライベートがほぼ描かれてないわけで、むらむらと妄想が広がってしまったのです。
コペル君に対して情熱を持った真面目なノートを書き連ねる叔父さんは、女性を前にする姿があまりにも遠く、遠いからこそその姿が見たい。恋愛はからっきしダメそうだけれども、実はとんでもない色男かもしれないという可能性……というかそれぐらいギャップがあってほしい。自分が大人になってこの叔父さんとデートをすることになったらどうしよう。私にしか見せない表情をするんじゃないか。本題は傍に置いといてそんなことばかり考えさせられたのです。そしてこういう邪(よこしま)な見方はこの本だけでなく、伝記や国語の教科書にも適用されてしまいまして。ませた女子児童なんてそんなものなのかもしれません。
しかしながら今考えてもあの叔父さんは妙な色気がある。子供にゲーテなんか引用する叔父さんですもの、女性を膝に乗せ、耳元で優しく彼女の考えを諭したりしてるんじゃないか。女性が叔父さんに書いた恋文を自分の前で朗読させるなんてサディスティックなことをしてるんじゃないか。
天邪鬼な女は直球の恋愛物語よりも関係ない本に妄想がむらむらとかきたてられるのかもしれません。