昭和の高度成長期のさなか、一般に正月休みは長めであったという。作家の小林信彦は、1968(昭和43)年1月14日の日記に「世間は今日まで正月なのだな、と思う」と記していた(『小林信彦60年代日記 1959~1970』白夜書房)。1964年の東京オリンピックのマラソンで銅メダルに輝いた円谷幸吉(当時27歳)が、所属する陸上自衛隊体育学校(東京都練馬区)の幹部宿舎の自室で自ら命を絶ったのは、その5日前、1月9日のことである。まだ正月ムードにあった多くの日本人は、この年10月のメキシコオリンピックでも活躍を期待されていたランナーの突然の死に衝撃を受けたに違いない。それからきょうでちょうど半世紀が経つ。

東京オリンピック、マラソンで銅メダルを獲得 ©getty

 遺書は2通あり、1通は「何もなし得ませんでした」という体育学校関係者への謝罪、そしてもう1通は肉親に宛てたものだった。その文面は、よく知られるとおり、次のようなものであった。

「父上様、母上様、三日とろゝ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。/敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。/勝美兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しうございました。/巌兄、姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。/喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。/幸造兄、姉上様、往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。(中略)父上様、母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。/何卒お許し下さい。/気が休まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。/幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」

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肉親に宛てた遺書 ©文藝春秋

 この遺書は反響を呼び、作家の川端康成は「千万言もつくせぬ哀切である」と評した。

なぜ命を絶ったのか? ノンフィクション作家たちの考えは

 後年にいたっても、多くのノンフィクション作家がその死の真相に迫っている。虫明亜呂無によれば、円谷は体の故障から前年に手術を受けていた。そのため、メキシコオリンピックへの出場は見送り、心身ともに回復を待って競技生活に戻ろうと欲していたにもかかわらず、「上層部は、日本のために、日本陸上のために、自衛隊のために、彼に走れと命じて」きたという(『仮面の女と愛の輪廻』清流出版)。沢木耕太郎はさらに、故障に加え、まとまりかけていた縁談が、自衛隊体育学校の上官からオリンピックへの障害になると横槍が入り、結局破談になったことを指摘した。このとき、円谷とそれまで苦楽をともにしてきたコーチが、上官に反対したため左遷させられたという(『敗れざる者たち』文春文庫)。後藤正治は「円谷の悲劇は主要には彼の資質に起因するとしかいいようがないが、そこには、個人に過重な重荷を背負わせた時代風潮が濃厚にかかわっている」と書いている(『マラソンランナー』文春新書)。

 暗い影がつきまとう円谷だが、けっして堅物一辺倒というわけではなかったようだ。東京オリンピックにともに出場した君原健二によると、「食事時、おもしろいことをいって周りのものを笑わせたり、ときに猥褻な話題を出してひょうきんに振る舞ったり」とユーモラスな一面もあったという(後藤、前掲書)。その君原は、円谷の遺志を胸にメキシコオリンピックに出場し、2位入賞を果たしている。