プロ入り前から目標とする存在 2年目オフに自主トレ参加を志願

 出会う前から、その背中をずっと追いかけてきた。将来、背番号17を背負って聖地のマウンドに立つことなんてまだ想像もしていなかったプロ入り前のこと。大きな壁が立ちはだかった時に“道標”としたのが、美しいまでのワインドアップを披露して腕を振る“タテジマの背番号14”だった。

能見篤史と岩貞祐太

 今年、プロ9年目を迎えた岩貞祐太からそんな話を聞いたのは、2013年のドラフト会議当日だ。その日、筆者は関東圏の指名選手を取材する“飛び出し要員”として会場だった品川プリンスホテルに待機していた。2度抽選を外したタイガースが“外れ外れ”1位で指名したのが、横浜商大の即戦力左腕。上司の「商大に向かって」を合図に品川駅から同行するカメラマンと一緒に新幹線に飛び乗った。新横浜駅から乗り換えを経て、タクシーで「横浜商科大学みどりキャンパス」にたどり着いた時には、辺りは真っ暗だった。

 一息入れる余裕はなかったが、何とか囲み取材には間に合った。緊張の面持ちで受け答えする岩貞本人が憧れの存在として挙げたのが当時、すでにタイガースの大黒柱だった能見篤史。虎番からすればこれほどありがたいアンサーはなかった。こちらが誘導尋問することなく、当時のエースの名が本人の口から出てくる。ただ、話を聞けば、うなずけた。

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「調子を崩して何か変えなければいけないということで、能見選手の腕の振りや体重移動など細かく見てきました」

 大学2年の冬に不振に陥った際、投球フォームなどで参考にしたのが同じ左腕の能見だったという。「(憧れの選手は)能見さんです。強い腕の振りからいろんな球を投げるのが自分の持ち味で、能見選手もそのような特徴なので教わりたい事はたくさんある。プロとしてのあり方や、技術以外の事も聞いていきたい」。そう決意して取材を締めくくった岩貞と能見の間で結ばれる“師弟関係”はこの時から必然だったのかもしれない。

 岩貞が動いたのはタイガースでの2年目を終えたオフ。能見が毎年1月に沖縄で行っている合同自主トレへの参加を志願した。即戦力として期待されながら、それまでの2年間で計11試合の登板にとどまり、一軍ではわずか2勝。危機感と焦燥感があった。大学2年の冬もそうだったように、救いを求めたのは先輩左腕。

 キャンプ地でもある沖縄・宜野座村での約3週間のトレーニング期間は“精神と時の部屋”のようだった。トレーニング方法、配球、球種、投球フォーム……能見を追えば、一流の投手を形成するすべての部分を倍速で学ぶことができた。「下半身だけ意識すればいい。下半身で間を作ればいい」という助言をもとに新フォームに着手。フォーク、チェンジアップなど縦の変化球の重要性も説かれ、スライダー一辺倒だった投球を見直すきっかけを得た。直後の春季キャンプで金本知憲監督の目に留まると、開幕ローテ入りを果たしてキャリア最多の10勝をマーク。追い込んでからチェンジアップで奪三振を量産スタイルは無双と言っていいほどで、“師匠”のエッセンスが存分に盛り込まれた飛躍に感じた。