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 被害者の人となりがある程度分かる。記事はほかの家族についても記している。

 他の家人はそろいもそろって五郎太の性質を受け、村内きってのしまり屋と冷評されている。ことに妻マサは、同村出身で現在県下の某分署長、某分署巡査ときょうだいで、日頃からそのことを高慢顔で村民に吹聴していたほど。一家はついに不調和になり、絶えずけんか口論に花を咲かせ、その都度、夫を尻の下に入れて妻である道を知らないように見えた。

 当時の新聞の事件記事だから、村民らの口さがないうわさをそのまま記事にしているのだろう。殺人事件だから当然ともいえるが、被害者を善人とし、容疑者となった家族を悪く書いている。

 その中でも、幸次郎夫婦が夫婦養子であるなど、家族関係の複雑さと、公判でも争点になる「評判はいいが酒飲みなのが玉にキズ」という幸次郎の人物像が浮かび上がる。そして、事件捜査は千脇尚徳・判事による予審段階での取り調べに入って大きな変化を見せる。

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酒飲み、借金、生命保険…「一家のためにならぬ」次男が父殺害供述

 大場弁護士の「不思議極る殺人事件」=白露生「死刑より無罪へ」(1917年)所収=はこう書いている。

 当時17歳の次男幸太は、その事件の発生した翌日、すなわち大正3年12月31日に新潟の裁判所の予審廷で、実際親の幸次郎を殺しましたと自白したのである。その言うところによると「12月29日の晩、幸次郎が外出していた留守に祖母、母、兄の3人と自分の4人でコタツに集まって父を殺す相談をした。父は酒を飲むし借金をする。そのうえ誠に働きがないのみか、生命保険にまで加入していて一家のためにならぬ。祖母がまず、幸次郎を殺してしまおうと打ち明けたので、自分ら3人はそれに同意し、殺害することにした」「翌朝未明に、納屋の前に来て様子をうかがっていると、午前5時半ごろ、父は例のごとく米をつくために入ってきた。その場にあった米つき用の杵を持って父の頭部、胸部、背部を乱打。兄の要太郎は父の後ろに回って襟巻きでのどを締めて殺しました」と申し立てている。

「父を殺したのは私です。私のほかには祖母も母も弟もみな関係はありません」今度は長男が殺害供述

 しかし、話はそう簡単にはいかなかった。同書の記述は続く。

 ところが、ミタもマサもはじめから、そんな相談ごとはないとあくまで否認している。長男の要太郎もはじめは否認したが、昨年(1915年)の1月15日、第2回の予審が開かれたときには、自分1人で父を殺害したと申し立てている。すなわち「父を殺したのは私です。私のほかには祖母も母も弟もみな関係はありません。私は12月28日に新潟市へ遊びに行ったときに学校友達と会って、いろいろな話から新潟遊郭へ素見(ひやかし)に行った。そして妓楼の店先に並んでいる美しい女たちを見て、どうか遊興したいと思った。しかし、私には遊興する金がない。金をつくるには、自宅にある米でも盗んで他へ売却するより仕方がない。毎晩1俵でも盗んでおいたならば、家の者は米泥棒を近所の者と思うであろうと決心した。が、その夜はついに実行せずに煩悶した」