冤罪事件はいまも絶えない。しかし、明治、大正、昭和戦前までは人権感覚がいまとは比べものにならないくらい乏しく、捜査で拷問や脅迫、強制なども行われ、多くの問題が生じた。今回取り上げるのも冤罪の疑いが濃い事件だが、内容はすさまじい。
新潟県の農家で年末、当主が惨殺されたが、その妻、長男、次男、義母の4人が起訴され、一審では全員に死刑判決が下された。控訴審では一転、長男の単独犯とされて他の3人は無罪に。長男は無実を訴えながら死刑に処された。
当時は大正デモクラシーの時代に入ろうとしていた半面、農村ではさまざまな活動を国家と結び付ける動きが進むなど、社会が大きく変わろうとしていた。事件の背景には何があり、事件は何を残したのか――。当時の新聞記事を適宜現代文に直し、文章を整理。今回も差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。
「鮮血が地面に流れ、壁には血の飛沫が…」
事件発生は1914(大正3)年12月30日朝。本来なら当日の夕刊か翌日の朝刊の新聞にニュースが載るはずだが、年末で夕刊はほとんどなく、当時は大みそかは休刊の新聞も多かった。おまけに発生場所が新潟で、在京紙の関心は薄かったのだろう。
発生を報じた新聞は見当たらなかった。地元紙・新潟新聞(新潟日報の前身の1つ)は報じたはずだが、国会図書館所蔵のマイクロフィルムは欠落しているようだ。「新潟県警察史」にも事件の記述はない。
事件報道が極端に少ない代わりに、控訴審で弁護人を務めた大場茂馬弁護士(のち衆議院議員)の回想録がある。それと森長英三郎「続史談裁判」(1969年)などから発生状況を書く。
12月30日朝、新潟市の南約12キロにある新潟県中蒲原郡横越村(現新潟市)の農業、細山幸次郎(49)方で、家族が朝食を食べようとして、養女(14)が米つきに行っていた幸次郎を呼びに納屋に行ったところ、殺されているのを発見した。
幸次郎は頭部に6~7カ所、体にも数カ所の傷があり、見るも無残なありさま。鮮血が地面に流れ、はりや壁に血の飛沫が付いていた。当日は大雪で、警察は外部から侵入した形跡がないとして、その日のうちに義母ミタ、妻マサ、長男・要太郎、次男・幸太を逮捕した。家族が米つき用の杵で殴って殺したとみたためだった。
年が明けた1915(大正4)年1月3日付新潟新聞に続報が載っている。
「生来の酒飲みだが性格は温良で…」評判の良い被害者と悪評の多い家族
殺人事件とその家族
中蒲原郡横越村における殺人事件に関してはしばしば報道したが、そののち家族間の事情について聞くところによれば、被害者幸次郎は1892年2月、同村の農家から先代五郎太のとき養子になり、同じく1884年1月、五郎太の養女になっていたマサ(43)と夫婦になった。五郎太死亡後、相続した家には義母ミタ(66)のほか、長男要太郎(23)、三男幸太(17)、四男幸平(11)、次女ミネ(3)がいる。長女は結婚し、次男は病死。五郎太は幼いころから「水飲み百姓」だったうえ、けちで村民との交際はもちろん、神仏のならわしさえあえてしないほど。ただひたすら食事を減らしても蓄財だけに意を注ぎ、ともかくも(年収)400~500円(現在の約130万~約166万円)の自作農になった。それに対し養子幸次郎は生来の酒飲みだが、性格は極めて温良で口論をしたこともなかった。日々大きめのご飯茶わんで飲酒。常に養父母にしかられ、昨今はわずか2~3合(約360~540ミリリットル)さえ口にしないありさまだった。村民からは絶大な敬意を払われていた。