いまから50年前のきょう、1968(昭和43)年1月19日午前9時36分、アメリカの原子力航空母艦エンタープライズが長崎県の佐世保港にいかりを下ろした。
エンタープライズは1961年に完成した世界初の原子力空母で、基準排水量7万5700トン、8基の原子炉を備え、乗員5000人以上、核ミサイル・核爆弾も装備可能の戦闘爆撃機など約100機が搭載できた。65年秋には米第7艦隊に配備され、ベトナム戦争における米軍の主力空母となる。日本政府は67年9月、アメリカから乗組員の休養・補給を理由に同艦の入港の申し入れを受け、同年11月にはこれを承認する旨、通告していた。
エンタープライズ入港にあたっては、日本のベトナム戦争加担、核持ち込みを懸念する野党や労働組合・市民団体が佐世保に結集し、反対デモを繰り広げた。なかでも反日本共産党系の学生たちは、入港2日前の1月17日朝に佐世保に到着すると、米海軍基地に向かい、阻止する警官隊と衝突、双方に重軽傷者92名を出す。このときの警備は厳重をきわめ、市民病院前の検挙の折には、警官が見物の市民や報道陣にまで暴力を振るったことが問題視された。学生たちは入港当日の19日も早朝から警官隊と衝突したものの、午後には組織的な抗議活動はなく、エンタープライズ以下の米軍艦艇乗組員6150人のうち約4000人が、厳重な警戒のなか夜の佐世保の街へと繰り出した(『昭和 二万日の全記録 第14巻 揺れる昭和元禄 昭和43年~46年』講談社)。
デモ隊と警官隊の衝突は、エンタープライズの出港する1月23日まで佐世保市内各所で繰り返された。とくに21日は、学生たちが佐世保橋から米軍基地突入を試み、警察側の放水や催涙ガスで押し返されるなか、市民や社会党系デモ隊なども橋際に詰めかけたため大混乱をきわめる。この日の衝突では、基地内に侵入した2人を含め学生12人が逮捕、160人が負傷した。なお、当時の佐藤栄作内閣は23日の閣議で、今後も米原子力空母の日本寄港を認めるとの統一見解をまとめている。
前年の1967年10月8日には、佐藤首相の東南アジア・太洋州諸国歴訪に反対する学生たちが初めて角材などで武装してデモを行ない、警官隊と衝突、そのなかで学生1人が死亡するという事件が起きた(第1次羽田事件)。以後、1970年には日米安保条約の再改定(70年安保)を控えていたこともあり、学生による政治運動は激化の一途をたどっていく。