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「人的補償第1号」のベースボール・ドリーム

 さて、以下は余談である。僕は人的補償というとどうしても思い出す選手がいるのだ。川邉忠義。1989年、巨人のドラフト2位だ。秋田工業から川鉄千葉を経て、鳴り物入りでプロ入りした。193センチの長身から投げおろすストレートに魅力があった。が、1軍未出場のまま、95年、河野博文のFA移籍の人的補償としてファイターズにやって来る。93年から施行されたFA制度の人的補償による移籍第1号だった。まぁ、ファイターズは昔からFAというと圧倒的に出ていかれるほうの側だった。

 河野博文は長嶋茂雄監督に「ゲンちゃん」と呼ばれ、人気者になった。一方、川邉も96年シーズン、1軍登板の機会を得て、ひたむきに頑張っていた。僕は川邉に注目して、登板試合を追いかけた。「人的補償」なんて人質交換みたいな語感の移籍だけど、これで芽が出たらベースボール・ドリームじゃないか。よそでくすぶっていた者が働き場を得て、ついに真価を発揮するのだ。川邉は実にマジメそうな選手だった。秋田出身らしく性格もおっとりしている。

 そのシーズンは17試合に登板した。1勝3敗、防御率4.89。川邉が1軍で投げたのはその年だけだから、これは生涯成績でもある。たった1勝しかできなかった。5月19日、千葉マリンのロッテ戦(5回2/3を2失点)。といってその前、1軍初登板の近鉄戦(5月12日、東京ドーム)も好投したんだよ。負けはついたけど、6回2失点でゲームをつくった。川邉はいつもホントに丁寧に投げていたんだ。スパイクについた土をときどきコンコンと落としていた。無表情だけど、いっしょうけんめいなのが伝わってきた。

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 翌97年のシーズン激励会が都内のホテルで開かれたとき、僕は川邉にサインを求めた。サインペンと千葉マリン内野自由席の半券を差し出す。川邉忠義は想像した通り、好漢だった。顔をパッと輝かせて「これは……、僕が勝った試合じゃないですか!」と言った。機会を与えられて本当にラッキーだと言った。人的補償で注目されて逆に励みになる、1つ勝てたことで自信になった、今年も頑張ります。

川邉忠義が唯一勝ち星をあげた試合 ©えのきどいちろう

 その年のオフ、川邉は自由契約になり、引退してしまうのだ。NPBの「人的補償第1号」は1勝しかできなかった。僕は本当に残念だった。だけどね、このサインは僕の宝物だ。この1勝はベースボール・ドリームだよ。人的補償をマイナスばかりで捉えないでほしいのだ。プロ野球史上のパイオニア、川邉忠義の誇りのためにも。今回は本当のところこの話が書きたかった。

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