死刑容認派が8割を超える日本。多くの国々が世界の潮流として、死刑廃止を決めてきた中で、日本がその実現に向かわない理由とは。そしてその潮流に乗る必要がそもそもあるのか――。

 ここでは、死刑囚や未決囚、加害者家族、被害者遺族の声から死刑の意味に迫ったノンフィクション作家・宮下洋一氏の著書『死刑のある国で生きる』(新潮社)より一部を抜粋してお届けする。(全2回の2回目/1回目から続く)

写真はイメージです ©iStock.com

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奥本章寛が犯した殺人

 2010年3月1日早朝、福岡県豊前市出身で当時22歳だった奥本章寛が、宮崎県宮崎市花ヶ島町の自宅で、妻のくみ子(当時24歳)、息子の雄登(同5カ月)、同居していた義母の貴子(同50歳)の3人を殺害した。

 奥本は、まだ赤ん坊だった息子の雄登の首を絞め、浴槽で溺死させ、くみ子に対しては包丁で首を刺した後、ハンマーで頭を複数回叩いて殺害。義母の貴子も同様の手口で撲殺した。

 奥本は、勤め先だった建設会社の資材置き場に雄登を埋めた。自宅に戻ると、警察に通報し、第三者による他殺を装った。しかし、事情聴取で供述に矛盾が出てきたことから、通報した本人が疑われた。翌日未明、雄登の遺体が発見され、奥本は逮捕された。後に、妻と義母の殺害で再逮捕された。

 奥本に前科はなく、真面目で評判の青年だった。保育園から高校卒業まで剣道一筋で、剣道部の主将も務めてきた。「玉竜旗」と呼ばれる勝ち抜き戦の伝統大会で、「5人抜き」の偉業を達成し、新聞に取り上げられたこともあった。18歳になると、憧れの航空自衛隊に入隊した。

第一審で死刑判決に

 宮崎県児湯郡の新田原基地に勤務していた頃、奥本は、くみ子に出会った。結婚して子供を授かると、自衛隊を除隊し、建設会社の土木作業員になった。だが、生活を支えるだけの十分な収入がなかった。奥本夫婦と同居していた義母は、奥本に対し、日々、暴言を吐き、時には暴力を振るうこともあった。

 その当時の家庭内事情について、奥本は実家の両親と祖母、そして2人の弟には一度も話さなかった。

 奥本が逮捕されてから半年。彼を子供時代から知る浄土真宗本願寺派「宝寿寺」の住職、矢鳴哲雄(65歳)が先頭に立ち、地元住民を集め、減刑嘆願書を宮崎地裁に送った。署名は、後に6000筆を超え、「奥本章寛さんを支える会」へと発展していく。

 裁判員裁判の初公判が開かれたのは、2010年11月17日だった。8日後の25日に第6回公判があり、被害者遺族の1人で、貴子の息子でくみ子の弟である石田健一(仮名)が、意見陳述で「極刑を望む」と断言した。約2週間後の12月7日、第一審の宮崎地裁(高原正良裁判長)は、奥本章寛に死刑を言い渡した。