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ウクライナの50代女性医師は語った「私たちの多くは死ぬことになるだろう。我々の世代でカタをつけなくては」

キーウ在住のジャーナリストによる最新報告

2023/02/15
note

キーウ在住のジャーナリスト・古川英治氏による最新報告「怒りと裏切りのウクライナ」を一部転載します。(月刊「文藝春秋」2023年3月号より)

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「たいしたことはない」

 私はこの原稿をロウソクの灯りを頼りに書いている。

 ロシア軍は2022年10月以降、ミサイル攻撃によりウクライナの民間インフラの破壊を繰り返しており、全土で電力供給が著しく低下した。私が住む首都キーウは、計画停電を実施しており、暖房や水の供給が不安定になっている地域もある。みな電気があるうちに携帯電話やコンピュータを充電し、料理や洗濯に取り組む。前線に近い町では電気もガスも水道もない生活を強いられている。

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ウクライナの地下鉄シェルター ©時事通信社

 だが、ロシア大統領ウラジーミル・プーチンが真冬に停電を引き起こすことでウクライナ人の戦意をくじこうとしたのならば、うまくはいっていない。市民から聞かれるのはこんな声だ。

「自由の見返りだと思えば、たいしたことはない」

 容赦ない無差別攻撃、占領地域での残虐行為、食糧やエネルギー供給への打撃まで、プーチンがウクライナ人を痛めつけようとすればするほど、侵略者に抵抗する士気は高まる。

 最新の世論調査によれば、ウクライナの勝利を信じる国民は95%に達した。2014年からロシアが不法占拠するクリミア半島を含むすべての領土を解放するまで戦いを続けるべきだと大多数が答える。(1)1991年独立時の領土の回復、(2)損害賠償、(3)戦争犯罪人の処罰……これが国民のコンセンサスだ。

ロシアへの恐怖、アメリカへの不信

 22年2月24日にロシアが全面侵攻を開始した時、ウクライナのここまでの戦いぶりを誰が予想しただろうか。3月にキーウの攻防に勝利し、欧米の支援を受け、9月には東部ハルキウ州からロシア軍を撤退させ、11月には南部ヘルソン州の州都を奪還した。敗戦を重ねたロシアは9月に予備役30万人を動員し、ミサイルや無人機による攻撃を繰り返しているが、戦況を打開する見通しはたたない。

 侵攻前のロシアの軍事予算はウクライナの10倍あり、大砲、戦車、戦闘機、海軍力のどれをとってもウクライナを圧倒していた。15万〜20万人規模で北、東、南からウクライナに攻め入ったプーチンは、短期間でウクライナを支配し、傀儡政権を立てるシナリオを描いていた。アメリカも数日でキーウが陥落する可能性があると見て、レジスタンス戦の支援を検討していたとされる。誰もがロシア軍を過大評価し、ウクライナの抵抗を侮っていた。

 かくいう私もそうだった。

「首都近郊の空港がロシア軍に占拠された」、「2000人のロシア軍空挺部隊が首都に展開しようとしている」、「ロシア軍が首都数十キロに迫っている」……。

 侵攻直後、こうした情報に触れるたび、ロシア軍に占領されるのではないかと、恐れ慄いていた。アメリカの度重なる警告にもかかわらず、ウォロドムィル・ゼレンスキー政権も多くの市民もロシアの全面侵攻の可能性を否定しており、パニックに陥るのではないかと懸念した。これはのちの取材で大統領府高官があっさりと認めている。

「21世紀にこれだけの市民を殺害する侵略戦争を誰が予期できたというのか。我々は東部がロシアの最大の標的だと考えていた……アメリカへの不信感もあった。大規模な侵攻がありえると言いながら、アメリカは我々と詳細を共有せず、それに備えるための武器も提供してくれなかった。当時は米ロの交渉にウクライナが利用されるのではないかという疑いもぬぐえなかった」

ゼレンスキー大統領 ©共同通信社

 頻繁に空襲警報が鳴り響き、断続的に爆発音が聞こえてきた3月初旬のキーウの情景が頭に焼き付いている。街から人影が消え、まるでゴーストタウンのようだった。いたるところに鉄条網とバリケードが築かれ、少し歩くだけで、検問で何度も身分証を見せなくてはならない。銃を手に街頭に立つ兵士たちには20歳前後と見られる志願兵たちの姿が目立った。ビルの入り口には土嚢が積まれ、レストランやカフェの大半は閉まった。食料や医薬品の供給が滞り、開店しているスーパーの商品棚はほとんど空になっていた。

 おそらくロシア発とみられる、ゼレンスキーが首都を脱出したという情報も流布されていた。

 すると、2月25日夜、ゼレンスキーが大統領府幹部らとともに携帯電話で自撮りしたビデオメッセージを発信した。薄暗いが、場所は大統領府の外であることが分かる。

「大統領はここにいる。みんなここにいる。軍もここにいる。市民もここにいる。独立を守るために、我々はみなここにいる」

 このビデオメッセージは国民を鼓舞し、抵抗の狼煙ともなったものだが、当時の私はいつまで持つのかという不安の方が大きかった。私は結局、3月6日にバスで西部リビウに退避し、キーウに戻ったのは、首都周辺からロシア軍が撤退した4月初旬になってからだ。