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藤井聡太が「豚キムチうどん」を頼んでお客が殺到…聖地になった『みろく庵』と“勝負メシ”の真実

『将棋指しの腹のうち』より#1

2023/03/08

source : 文春文庫

genre : エンタメ, スポーツ, 読書, グルメ

note

本当の「現場の勝負メシ」

 まず、おやつは出ない。よくタイトル戦の中継などで、頭のてっぺんまで甘ーくなるような立派なスイーツなどの写真が出るが、あれはあくまでも例外である。30年くらい前までは、みかんやせんべいなどが記録係の机の上に出てきたのだが、あるときからそのよき習慣もなくなってしまった。

 食事は基本的に十数人が一堂に会して食べる。対局が多くて一部屋に入りきらないと、いつも会議などで使っている部屋が使われる(コロナの流行が始まってからは数部屋に分かれることになった)。

 さて、対局中の棋士ほど、まわりにイヤーな空気をまきちらす人間はいない。眼光鋭く気迫が漲っていて、ゴホンゴホンと空咳をしたりしている。

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 食事休憩だから少しは柔らかくなるが、本質はまったく変わらない。野獣の集まりである。

 会話はほとんどない。なにせ男ばかり(女流棋士も対局のときは男のようなものである)なので、まあむさくるしいったらありゃしない。みんな凍りついた空気の中、ボソボソとうつむきながら、無理やり口につめ込んでいく。私は対局中の棋士ほど食事をまずそうに食べる人間というものを見たことがない。

 食べ終わったら、自分で器を片付ける。汁物の場合はバケツの中につゆを捨て、お店別に所定の位置に置いて、はい終了である。

 これが真実、デパートの裏口に通ずる扉の向こう側の世界である。

 食事中、対局相手も同じ部屋にいて、気まずくはないかという疑問があるかもしれない。これには、ない、としか言いようがない。そんなことは慣れっこの狭い世界なのである。

 みろく庵に話を戻すと、そばを頼む棋士も多かったが、定食や丼ものなどの出前も多かった。特に人気があったのが、里芋の煮っころがしの定食で、若い人はこれに唐揚げ3個とかをつけているのをよく見た。

 梅雑炊というメニューがあって、夜にこれを食べる棋士は多かった。昼はほとんど見たことがない。理由は書くまでもないでしょう。夕食休みのときは下手をすると玉が詰みそうになっていたりしますからね。

 街のどこにでもあるようで、実は減りつつある、居酒屋とそば屋を兼ねる、昭和の香りを残すよき店。あらゆる人に重宝がられたみろく庵。そんな素晴らしい店にもひとつだけ欠点があった。

「藤井くん」に親子丼でイタズラ

 これから書くことは大人としてのたしなみに欠けるかもしれない。だが、惜しまれつつ閉店した店の話である。ここはひとつ、書いてしまおう。

 親子丼がまずいのである。

※画像はイメージ ©AFLO

 あくまで出前の話だ。店で食べたことは一度もない。

 はじめて食べたときの衝撃は忘れられない。鶏肉がパサパサで玉子や玉ねぎもしなびている。なんじゃこりゃっていうレベルだった。

 不思議なのは、カツ丼はうまいというほどでもないが、フツーなのである。玉子丼もフツーだ。親子丼だけ、はあ? なのである。

 私は同僚の棋士を引っかけることにした。相手は慎重に決めなければならない。親しい人間でやーいとからかえる者……考えたあげく、はじめはムラこと村山慈明七段を獲物にすることに決め、対局の日の食事休憩中に話しかけた。

「こないださあ、みろく庵の親子丼を食ったんだけど、それが絶品でさあ」

 彼は、はあ? という顔になった。私を疑わしそうな目でじろじろ見ている。

「僕、食べたことあるんですよ」

「え、そうなんだ……」

「おいしかったから、ぜひ食べてみろと言いたいんでしょ。そうはいきませんよ」

「な、なぜ俺の頭の中が分かるのだ。超能力者か?」

「先崎先生の考えそうなことなんて、すぐに分かりますよ。何年付き合ってると思ってるんですか」

 私はうなだれるよりなかった。しかしめげている場合ではない。次の標的を探さなければ。私はシブく考えた。

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