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 さすがに先輩をダマすわけにはいくまい。しかし後輩に言ったところで冗談で済めばいいが、本気で怒られたりひょっとしてパワハラとやらになってしまうかもしれない。やはり同年代しかあるまい。同年代、同年代……しゃれを解する同年代……。

 ひとりの名前が浮かんだ。藤井くんだ。聡太ではない。そんなことをしたら社会的事件になってしまう。もっとも私がこのイタズラを仕掛けたのは、彼が四段になったばかりのころのことだったが。藤井猛九段である。言わずと知れた超人気棋士なのでからかう対象としてこれ以上の奴はいない。

 対局で一緒になった日に仕掛けてみた。「藤井くん、みろく庵の親子丼って食べたことある?」

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 藤井くんは「え?」という顔をした。「先崎さん、真面目に言ってるんですか? 食べましたよ、こないだ」

「……で?」

「正直言って、人にはすすめられませんよね」

 もはや返す言葉もない。さすがに第三の標的を探すほどヒマではないので、私の密かなミッションは終わりを告げたのだった。

 みろく庵は、こういう店がある街に住んでみたいな、と思わせるそば屋だった。気取らず、一日の労働で疲れた人々を優しく包み込んでくれた。おばちゃんが走りまわり、おつまみの品数が多いのに注文したメニューがすぐに出てきた。庶民による庶民のための店。だから最後の最後になって、あれだけのブームになり、将棋ファンが押し寄せたのだろう。ファンの方との飲み会の席に何回か私も顔を出したが、そこには人々の、将棋というものを紐帯とした一体感がたしかにあった。今の世に人が求めているものは、つながりであり、場であろう。将棋とみろく庵のコラボレーションは、見事にその役目を果たしたのである。

将棋指しの腹のうち (文春文庫 せ 6-3)

先崎 学

文藝春秋

2023年3月8日 発売