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調査捕鯨と何が違うのか

 私が仙台港に停泊中の捕鯨船団に乗り込んだのは、2022年9月中旬のことである。第三勇新丸と、世界で唯一の捕鯨母船である日新丸からなる船団は、6月から11月まで操業を行う。最後の2カ月におよぶ航海に同行するためである。11月中旬に下関に帰港するまで陸には戻れない。見送りにきた十数人の関係者にデッキから大きく手を振った。ふと既視感を覚え、苦笑いした。

 2007年と2008年の夏に、北西太平洋で実施された調査捕鯨に同行取材した経験がある。2年でトータル145日も第三勇新丸や日新丸などの捕鯨船団で過ごした。前回も前々回も、高揚感とともに出港したものの、しばらくするとホームシックに苛まれ、陸での日常に焦がれた苦い記憶がよみがえったのである。

 三たび捕鯨の現場に立ちたいと考えたきっかけが、その3年前の2019年夏。日本は、32年も続けた調査捕鯨を打ち切り、200海里内での商業捕鯨再開に踏み切った。

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母船へとクジラを引き上げる瞬間(筆者撮影)

 私が日新丸から第三勇新丸に移乗したのは10月8日のことである。第三勇新丸の船長である大越親正は、日焼けした童顔をほころばせて目尻に皺をつくって迎えてくれた。

 調査と商業とはなにが違うのか。

 その疑問に捕鯨者らしい見解を示してくれたのが、大越である。

「2019年に調査捕鯨から商業捕鯨に変わりましたが、捕鯨の本質は変わりません。調査であろうが、商業であろうが、捕鯨は漁業です。資源量を把握し、可能な数のクジラを獲る。その点では、絶滅が危ぶまれるほどクジラを獲り尽くした戦後の商業捕鯨とはまったく違います」

 1969年生まれの大越は下関の水産大学校卒業後の1993年に第三勇新丸を運行する共同船舶に入社した。捕鯨をめぐる怒濤に翻弄されつつも、30年近くもクジラを追ってきた矜恃が、端々に垣間見える。

「入社当初から日本の捕鯨に対して国際世論は厳しかったし、グリーンピースやシーシェパードの妨害を受けてきました。でもだからこそ、私は、捕鯨の現場に最後まで立っていたかった。クジラを獲るという仕事が私に合っていたんだと思います」

 戦後の商業捕鯨から、平成の調査捕鯨を経て、令和の商業捕鯨へ。大越たち“捕鯨者”にとっては自明の歴史ではあるのだが、日本の捕鯨が残した航跡は複雑で理解しにくい。

 振り返れば、戦後の食料難時代、クジラ肉はタンパク源として日本の食卓を支えた。1960年代になると世界各国がクジラを獲りすぎた反動で、捕鯨への批判が強まる。絶滅の危機に瀕したクジラを守ろうという主張が国際的なスタンダードになる。ただ一口にクジラと言っても、八十数種類もいる。絶滅の危機にあるクジラもいれば、増加した種もいる。日本は、数が増えたクジラを対象にして捕鯨継続を訴えた。

 だが、日本の意見は一顧だにされず、南極海での商業捕鯨は停止に追い込まれる。捕鯨をあきらめない日本は、1987年から南極海での調査捕鯨をはじめた。クジラの種類ごとの生息数や生態、食性、生態系の仕組みを解明し、生息数を減らさないように利用する新たな捕鯨のスタイルを確立しようとしたのだ。しかし理解はえられない。2000年代になると調査船団に対する妨害活動が行われるまでに抗議は激化する。