去る2月4日、沖縄県の名護市長選挙で、安倍政権の支援する新人・渡具知武豊(自民・公明・維新推薦)が、現職の稲嶺進(社民・共産・沖縄社大・自由・民進推薦、立民支持)に約3500票差をつけて初当選した。最大の争点と目された米軍普天間基地(宜野湾市)の名護市・辺野古移設について、稲嶺が反対をあらためて訴えたのに対し、渡具知は選挙中はその賛否には触れず、市民生活の拡充や経済振興を前面に押し出した。
1996(平成8)年の日米両政府の普天間基地返還合意にともない、基地機能の移転先として辺野古沖が候補地となって以来、地元となる名護市では議論が続いてきた。97年12月には、海上基地建設について市民投票が行なわれ、反対票が52.85%を占めた。だが、この結果に対し当時の比嘉鉄也市長は、地元振興を図る立場から橋本龍太郎首相(当時)に建設受け入れを表明、辞職する。これを受け、いまから20年前のきょう、1998年2月8日、市長選挙が実施され、前市長の後継者である岸本建男・前助役が、反対派の玉城義和・前県議に1150票差で当選した。岸本は選挙戦で振興策を掲げ、基地建設については「前市長の判断が名護市の判断」とする一方、投票の2日前に沖縄県の大田昌秀知事が受け入れ拒否を表明すると「知事の判断に従う」と公約し、争点はあいまいになった。この点といい、当初は反対派が優位と見られていたことといい、20年前と今回の選挙には重なる部分が目立つ。
この市長選の9ヵ月後、98年11月に行なわれた沖縄県知事選では現職の大田を破って、稲嶺恵一が当選。稲嶺知事は翌99年12月、「15年の使用期限」「軍民共用」などを条件に辺野古沖への移設受け入れを要請し、これを岸本市長も受諾した。だが、その後、2005年の在日米軍再編にともない、移転先は辺野古沖から、既存の米軍基地沿岸部を埋め立てるキャンプ・シュワブ沿岸案へと変更。受け入れの条件として地元が提示した「軍民共用」は完全に無視される格好となった。その計画内容も、普天間基地にはない軍港機能などが加えられ、単なる「移設」ではなく「新基地」という色合いが濃くなっていく(櫻澤誠『沖縄現代史』中公新書)。そのなかで2009年には民主党の鳩山由紀夫政権が誕生し、普天間基地の県外または国外移設を主張するも、アメリカとの交渉は難航、翌年辞職する。こうした流れに翻弄されながら、名護市ではキャンプ・シュワブ沿岸案を受け入れた島袋吉和に替わり稲嶺進が市長に就き、移設反対を訴え続けるが、2013年、当時の沖縄県の仲井眞弘多知事は同沿岸の埋め立てを承認、翌年8月には基地建設が着手された。
地元の反対はいまだに根強いものの、それを訴えるほど政府との溝は深まり、地域経済にも影響が生じる。今回の市長選の結果は、そんな市民のジレンマをあらためてうかがわせた。当選した渡具知は、地元紙のインタビューで《辺野古移設に反対する人も数%は私を支持した。複雑な民意だった》と語った(『琉球新報』2018年2月6日付)。辺野古移転が浮上してすでに21年。地元と国はどう折り合いをつけるのか。