ジャーナリストの鷲田康氏による「日本を鼓舞したダルビッシュの言葉学」(「文藝春秋」2023年5月号)を一部転載します。
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日本代表の”精神的支柱”として
日本が3大会ぶりに世界一を奪回した第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。前回優勝のアメリカ相手の決勝戦で日本代表は、先発の今永昇太投手から7人の投手で繋ぎ、3対2で逃げ切った。試合終盤には、ダルビッシュ有投手から大谷翔平投手にバトンがわたる豪華な“メジャーリーガー継投”も実現した。
「とにかく同点に追いつかれて(大谷にバトンを)渡すのだけは嫌だったので、勝った状態で渡したかった。それだけを考えてマウンドに上がりました」
3対1と2点リードの8回にマウンドに上がったダルビッシュは、1死からカイル・シュワーバー外野手の一発を浴びて1点差に。さらに続くトレイ・ターナー内野手にも中前安打されて同点のピンチを招いたが、何とか後続を断ち切った。
WBC日本代表が本格的に始動したのは2月17日からの宮崎キャンプだ。ここから3月22日の決勝戦まで日本代表の精神的支柱となり、チームを1つにまとめ上げたのは、最年長のダルビッシュである。大谷や吉田正尚外野手らが所属チームで調整するなか、メジャー組でただ1人、宮崎キャンプに参加した。年齢だけでなく日米での実績、経験は精鋭ぞろいの代表チームでも抜きん出た存在であり、宮崎に集まった段階から他の選手は畏敬の視線を送っていた。
「結構、警戒されていると思うので、ちょっとあまりまだ話していない選手もいる」
キャンプ初日、こう語っていたダルビッシュだが、自ら若手に積極的にアプローチする。いきなり佐々木朗希投手と宮城大弥投手と木の花ドームで居残り練習をして、2人にスライダーやスプリットの握りを伝授。練習後にはグラウンドに車座に座り、野球談義に花を咲かせた。
その後も一緒にウエートトレーニングをしていた湯浅京己投手が「熟睡できない」と悩みを打ち明けると、すぐに自分が持っている睡眠補助のグミをプレゼント。また山本由伸投手からチーム最年少でプロ2年目の高橋宏斗投手まで、ブルペンのピッチングを見て、トラックマンのデータと比較しながら様々なアドバイスを送る姿があった。
周囲からは“ダルビッシュ先生”が生徒に投球術を教えているように見えたが、本人は「あくまで意見交換」だと語る。
「キャリアはあまり関係なくて、自分たちもお金をいただいて野球をしているプロである以上、ずっと成長していく姿勢は崩してはいけないと思うので。特に僕はアメリカ生活が長いですから、年功序列とかそういうのは全く関係ないですから」
宮崎キャンプで筆者とトラブル
ここ数年でダルビッシュは、野球人としてだけでなく、人としても大きく成長した。
2005年に東北高校からドラフト一巡で日本ハムに入団した頃は、まさに出身地の大阪・羽曳野の問題児だった。入団直後のキャンプ中に未成年ながらタバコを燻らせ、スロットに興じ、謹慎も経験した。その後は投手としての素質を開花させて、野球人として絶対的な地位を築いていったが、周囲に攻撃的な雰囲気を放つ、怒れる若者だった。
「あの頃が一番、尖っていた」
本人がこう振り返ったメジャー挑戦1年目の12年にアリゾナキャンプで取材したことがある。ロッカーで挨拶をしようとしたら、斜め上から顎を少し上げ気味に見下ろし、無言で去っていった。
そして今回の代表キャンプ中に「またか……」と思ったトラブルが起きる。キャンプイン直後、筆者が週刊文春に連載しているコラム「野球の言葉学」の有料配信記事を目にしたダルビッシュがSNSでクレームを投稿したのだ。
その記事では、08年の北京五輪で日本代表入りした際の「何回も言いますけど、日の丸ってのは僕の中で絵でしかないわけで。何も思わないです」という当時の発言が見出しになっていた。それに対してダルビッシュは「15年程前のコメントを真意も聞かずに見出しに使い、有料記事で出すってちょっとズルくないですか?」と呟いた。何せフォロワー数200万人超えの影響力だ。この呟きを見たファンの筆者への攻撃がすごかったのは言うまでもない。
そこで筆者は、ダルビッシュ本人と直接、話をした。もともと雑誌用に書いた原稿で、決して有料配信へ誘導するためにあの言葉を選んだのではないことを丁寧に伝えた。国際大会になると「負けられない」「日の丸のために」と煽り気味になるメディアへの自省と、そのことにいつも気づかせてくれるのはダルビッシュだったと書いていると説明した。
「わざわざありがとうございます。僕も見出しだけで書いてしまってすみませんでした」
こちらの目を見て穏やかに話し、雑誌記事のコピーを手渡すと、「ありがとうございます」と受け取ってくれた。後日、自身のライブ配信で「本当に変に僕を貶めようとかいう気はなかったんだろうなという感じはしました」と語っている。
夫、父親、野球選手の順番
米国で取材する記者から「ダルビッシュが饒舌になった」という話を聞くようになったのは、16年前後からだった。
15年に右内側側副靱帯の損傷が見つかりトミー・ジョン手術を受けた。そこから1年以上のリハビリ生活。そして何より大きかったのは、14年から交際を始めて16年にゴールインした聖子夫人の存在だった。
「僕はずっと妻に人間として(の面倒を)見てもらっているので、そういうところでだんだん習っていったということだと思います」
キャンプ中に若い選手への言葉遣いや接し方が丁寧なことは誰の影響かと聞かれて、聖子夫人の存在について語り、独特な家族観も披露する。
「今まで独身の時は自分が野球選手であることが一番でしたけれども、結婚すると自分の一番最初の役割というのは夫であるので、そこから父親が二番目にきて、その後に野球だと思う。やっぱり夫であり父親。プロとして何とかしようとすると、そこに目を届かせないといけないということで変わってきたと思います」
子供達ではなく、まず聖子夫人がいる。その理由も明白だ。
「最初に一緒になったのは妻の方で、そこから子供たちが……可愛いですよ……でも、そこ(夫婦)の関係を子供たちは一番見ているので。結局、どういう人間になって欲しいかというと、一番近くの人を一番大事にして欲しいという気持ちがある。それは言葉というより、そういう環境にいる方が自然とそうなりやすいのかなというのもありますし、単純に自分は妻がそれだけ好きだということです、はい」
穏やかな口調でこんなことまで話す。尖ったダルビッシュは、もうそこにいなかった。
「日本で投げるのは特別」
そして投手としても大きな変貌を遂げている。
今大会、初めてマウンドに上がったのは、3月10日、一次ラウンド第2戦の韓国戦だった。
「WBCのマウンドというより、日本で投げることが十何年ぶりなので、特別に感じて投げました。やっぱり生まれ育った場所ですので。こういう機会はもうないかもしれないので、最後かもしれないと思って投げました」
韓国打線を相手に1、2回は三者凡退で無難な滑り出しだった。しかし波乱は3回にやってくる。先頭打者に高めの真っ直ぐを左中間へ二塁打され、8番・梁義智捕手にスライダーをレフトスタンドに運ばれた。
さらには味方のエラーも絡み、2死二塁から3番の李政厚外野手に右前タイムリー安打を打たれる。ダルビッシュのWBC初登板は、3回を投げて計3失点(自責点2)だった。
日本時代は150㎞台のストレートを武器に、圧倒的なパワーピッチャーだったが、12年ぶりの日本のマウンドでは全く違った姿を見せた。「自分は変化球投手」と自ら認めるように、さまざまな球を動かしながら相手を抑え込んでいく技巧派投手へと進化している。
本人曰く、変化球への「執着」は子供時代の体験からくるという。もともと変化球を投げるのは好きだったが、小学生の頃に投げたカーブにまったくキレがないと指摘され、そのショックから変化球への執着が始まったという。
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鷲田康氏による「日本を鼓舞したダルビッシュの言葉学」全文は、月刊「文藝春秋」2023年5月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
日本を鼓舞したダルビッシュの言葉学
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2023年5月号
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