ノンフィクション作家・河合香織氏の新連載「老化は治療できるか 甦るドラキュラ伝説」を一部転載します。(月刊「文藝春秋」2023年5月号より)
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「アイアン・メイデン(鉄の処女)」という拷問
前回は、老化の速度が遅いハダカデバネズミや死なないベニクラゲなどの生態を見ることで、老化や死は生物にとって必然ではないことがわかった。
だが、ヒトにおいてはそれらを避けて通った者はいない。老いと死に抗うために人類は科学や医学を発展させてきたが、時には常軌を逸したこともあった。
中世のハンガリーに、バートリ・エルジェーベト(1560年〜1614年)という貴族の女性がいた。この名を知らない人も「アイアン・メイデン(鉄の処女)」という拷問器具を聞いたことがあるかもしれない。
バートリは処女の血を浴びると肌がきれいになると信じ、血を搾るためにアイアン・メイデンを開発したと伝えられている。彼女は、女性から搾り取った温かい血液を満たした風呂に入ったり、人間の皮膚をかじって血肉を食らったと伝えられている。24年間に殺した人間の数は、本人の記録では650人。1610年にバートリが捕えられた時には敷地から無数の死体が見つかったという。
彼女は裁判にかけられ、共犯者の女中らは処刑された。だが、首謀者のバートリは高貴な家の女性ということで処刑はされず、幽閉されて死を迎えたとされる。彼女は「血の伯爵夫人」と呼ばれ、ドラキュラ伝説のモデルとも言われた。
当然のことながら猟奇殺人は許されない行為であるが、人はそれほどまでに老化を恐れ、アンチエイジングに心血を注いできたとも言える。
古今東西、血液は身体にいいと言われてきた。人間の血だけではなく、動物でも効果があると信じられてきて、現代の日本でもすっぽんの生き血は精力がつくとされている。ロシアでは鹿の角を切る時に出る血を飲んだり、その風呂に入ったりすることが若返りに効果があるという考えがあり、プーチン大統領も鹿の血の風呂に入浴しているとも報道された。確かにプーチン大統領は年齢よりも若々しく見える。
実はこのような生き血と若返りの伝説はあながち「非科学的」ではないかもしれない――。
血液に隠された秘密
老化研究で世界的に有名なワシントン大学医学部の今井眞一郎教授によれば、「血液には若返り効果があるという伝説は、荒唐無稽ではないところが面白くもあり、まずいところでもある」という。なぜなら、血液中には老化で衰える機能を活性化させる物質が含まれているからだ。
2000年、今井教授はマサチューセッツ工科大学のレオナルド・ガレンテ教授と共に、細菌から哺乳類まで幅広い生物の体内に存在している「サーチュイン」というタンパク質が、老化・寿命を制御する特別な酵素であることを突き止め、英科学誌「ネイチャー」に発表した。サーチュインとは、サーチュイン遺伝子が作り出すタンパク質で、その後の膨大な研究から身体の様々な機能の制御に重要であることが明らかになっている。
今井教授らは7種類あるサーチュインのうち、SIRT1というタンパク質に注目し、脳の中にだけSIRT1が増えるように遺伝子操作したマウスを作って調べたところ、老化が顕著に遅れ、寿命がオスで9%、メスで16%延びた。つまり、老化を遅らせることができ、死ぬ直前まで健康な状態が保たれた、いわば「ピンピンコロリ」に近い状態だったことを意味するという。
この老化制御に関わるサーチュインが働くためには、NAD(ニコチンアミド・アデニン・ジヌクレオチド)と呼ばれる物質が必要である。NADを合成するためには、出発物質としてニコチンアミド(ビタミンB3)があり、これがNAMPTという特別な酵素の働きでNMN(ニコチンアミド・モノヌクレオチド)になり、さらにエネルギー代謝の根源的な物質であるNADに変換される。
「あらゆる生命はNADを『エネルギーを遣うための通貨』のように利用している。サーチュインのひとつであるSIRT1は、このNADを使うことによって、生存に必須な機能を回復し、維持させる効果をもたらすのです」
このNADを合成するために重要なのは脂肪組織である。脂肪組織と、老化・寿命制御の中枢として働く視床下部の間にやり取りがなされるため、小太りな方が死亡率が低くなるのではないかと今井教授は言う。