「そんなふうに人脈が広がってきたころ、山下達郎くんに出会いました。たしか荻窪ロフトで初めて会って、音楽関係の共通の友人もいて、親しくなりました。」
今年3月に亡くなった、坂本龍一さんの自伝『音楽は自由にする』より、人生に影響を与えた4人との出会いをお届け。山下達郎さん、大滝詠一さん、細野晴臣さん、矢野顕子さんとの出会いはどんなものだったのでしょうか?(全2回の1回目/後編を読む)
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70年代の中央線文化
考えてみると、当時は中央線沿線の町にいることが多かったですね。高円寺、阿佐ケ谷、吉祥寺、三鷹、国分寺。中央線沿線はフォークの中心地でしたが、その一方で、有機栽培の店とか、整体、ヨガ、合気道の情報なんかも集まっていた。国立で、日本のヒッピーである「部族」の人々に会ったり。部族の創始者である山尾三省さんには、屋𥔖島で、三省さんが亡くなる少し前にお会いしました。
70年代に入り、新左翼運動がつぶれてしばらくして、みんな新しい出口を探していたんだと思います。ヤマギシ会のようなものができたり、日本の環境運動が生まれたのもあのころかもしれない。そういうニューエイジ的な動きの中心になっていたのが、中央線沿線でしたよね。
ぼくもそういう動きに関心はあったけれど、政治に負けたからといって、じゃあ有機農法だとか部族だとか、そっちに行っちゃうのは負け犬だと思ったりもして、あまり近寄りませんでした。
いずれにしても、当時の中央線沿線には、音楽や、演劇や、そういう新しい運動や、いろいろなものがごちゃまぜになって混在していました。あのあたりには、今でもその名残がありますね。
山下達郎くん
そんなふうに人脈が広がってきたころ、山下達郎くんに出会いました。たしか荻窪ロフトで初めて会って、音楽関係の共通の友人もいて、親しくなりました。
山下くんの音楽は、ぼくが日比谷の野音などで聴いていたロックやブルースとはぜんぜん違うもので、とても驚きました。言ってみれば、ものすごく洗練されていて複雑なんです。ハーモニーも、リズムの組み合わせも、アレンジも。とくにハーモニーという面では、ぼくの音楽のルーツになっているドビュッシーやラヴェルなんかのフランス音楽とも通じるところがある。
こっちは一応音大に、実際にはほとんど行ってないですけど、まあとにかく行って、何年もかけて勉強したのに、ロックやらポップスやらをやっているやつが、どこでこんな高度なハーモニーを覚えたんだ、どういうことだ、と思いました。