昭和30年代の日活映画黄金期に“マイトガイ”の異名を取り、後に“タフガイ”石原裕次郎と人気を二分した“最後の銀幕スター”小林旭氏(84)。その小林氏が自らの俳優人生を熱く語った短期連載「小林旭 回顧録」が月刊「文藝春秋」6月号でスタートする。第1回タイトルは「裕次郎の背中」。

 1959年に『南国土佐を後にして』が大ヒットし、「渡り鳥シリーズ」「流れ者シリーズ」「銀座旋風児シリーズ」などに出演し、日活の看板スターとなった小林氏。だが、最初は大部屋俳優で、デビュー前からスターの座を約束されていた裕次郎とは歴然とした差があったという。

小林旭氏 ©文藝春秋

「太陽族そのままのスタイルだった」

 裕次郎を初めて生で見たときのことを、小林氏は鮮明に記憶している。

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「その日は日活の撮影所にいて、ちょうどスタジオに向かおうとしていたところだった。俳優部の部員さんに『石原裕次郎さんが着きました』と耳打ちされて、世紀の二枚目と言われる男がどんなものか見てやろうと思ってね。

 離れたところから眺めていると、車のドアが開いて、まず出てきたのは脚だ。ゴム草履を履いた素足がスッと伸びて、下には海水パンツを穿いていた。髪は坊ちゃん刈りでアロハシャツの裾を前で結んでたな。当時は『湘南の貴公子』なんて呼ばれていたらしいけど、太陽族そのままのスタイルだった。『いらっしゃいませ』って所長やみんなから出迎えられていたよ。これが噂の裕次郎かって。まあ、大したもんだった」

 小林氏が第3期日活ニューフェイスオーディションに合格したのは昭和30年、17歳の時。4歳上の裕次郎が慶應大学を中退し、映画『太陽の季節』で鮮烈なデビューを飾る1年前のことだった。

石原裕次郎 ©文藝春秋

 その後、小林も『南国土佐を後にして』を皮切りに「渡り鳥シリーズ」が大ヒット。2人はライバルとして売り出されていく。

「裕次郎とは何かにつけてライバル視されるようになったし、撮影所でも『裕次郎一派』と『渡り鳥一家』に分かれて、喧嘩になることもあった。でも、当人同士はよく遊んだし、一緒に酒もしこたま飲んだよ」