試合前から、いつになくソワソワしていた。5月5日、午前9時半すぎ。バンテリンドームの一塁側カメラマン席付近で「やばいっす、やばいっす」と、声をかけてきたのは中日・伊藤康祐外野手だった。
本拠地での試合前練習では、フリー打撃の前後に一塁側の奥に設置されているマシンで、バント練習をしてから試合に備える。伊藤が入念なほどのバント練習を終えメインの打撃練習へ向かうとき、こっそり「今日、2番・レフトでスタメン」と耳打ちしてくれた。だいぶ顔がこわばっている気もしたが、今となっては気合いが十分だったということにしておこう。
「失敗したら俺の野球人生終わるんだろうなと思っていた」
1点ビハインドの8回。「黄色じん帯骨化症」から1軍復帰登板を果たした福敬登の好投で、ドラゴンズへと流れが傾き始めていた。先頭の代打・大島洋平が中前へヒット。代走には高松渡がコールされた。立浪和義監督が次々と送り出す切り札たち。そして、好調の1番・岡林勇希に送りバントのサインはなかった。伊藤はネクストバッターサークルで極度の緊張状態にあった。
「岡林に送りバントのサインがない時点で、絶対に自分が(バント)あるだろうなと考えながら状況を見ていました。もうそのつもりで準備というか、心構えをしてました」。想像通り、岡林は四球で出塁。無死一、二塁の絶好機が目の前にできあがった。
送りバントは成功すれば試合の流れを加速させるが、失敗すれば大減速させてしまう。巨人はこの日、4回無死一、二塁の大チャンスを作ったが、送りバント失敗から好機を逸していた。先頭の岡本和真、丸佳浩が連続四球で出塁。6番・ブリンソンに送りバントの指示がでたが、カウント1-1から送りバントを試みるもキャッチャー後方への小フライとなり、捕手・木下拓哉がジャンプしながら好捕。飛び出していた二塁走者・岡本和がベースへ戻り切れず“捕邪飛併殺”が完成した。巨人は5回に2点を加え、終盤までリードした展開を作っていたのは事実だが、球数がかさんでいた小笠原慎之介から1点でも多く取れていれば、試合展開も大きく変わっていただろう。
話を8回無死一、二塁へ戻す。伊藤はカウント1―0から田中千晴の前に打球を殺し、送りバントを成功させた。
「立場的にこのバントは絶対に決めないといけない。この打席、バントに自分の野球人生がかかってんだろうなと。失敗したら俺の野球人生終わるんだろうなと思っていた」
ベンチ前に戻ると安堵から破顔した。重圧に打ち勝った結末は、歓喜の瞬間の連続。3番・細川成也は逆転2点タイムリー、4番・石川昂弥&6番・福永裕基の2ランで、一挙6点。試合をひっくりかえすだけでなく、巨人にトドメを刺した。
“ミラクルエイト”は今年も健在。巨人3連戦はいずれも8回に試合が動いた。12球団で今季最も遅い同一カード3連勝にはなったが、21年9月以来、2シーズンぶりの巨人戦同一カード3連勝を達成。間違いなく、伊藤が決めた決死の送りバントから、チームの勢いは加速した。