いまから50年前のきょう、1968(昭和43)年2月20日の夜、一人の男が静岡県清水市(現・静岡市)のクラブで金銭のトラブルから暴力団員2人をライフル銃で殺害したあと、乗用車で大井川上流の寸又峡(すまたきょう)に逃亡し、旅館に立て籠もった。男は金嬉老(キム・ヒロ)という当時39歳の在日朝鮮人2世だった。金はライフルのほか実弾とダイナマイトを持ち、旅館経営者と宿泊客を人質にとると、翌21日未明に清水署に自ら通報、居場所を伝えた。このあと、朝までに警察が出動し、旅館を包囲する。金は説得に来た刑事に対し、人質には絶対に危害を加えないと約束するとともに、前年に別の事件で清水署で取り調べを受けた際、朝鮮人差別発言をした刑事に謝罪させるよう要求した。
旅館には、警察とともに大勢の報道陣が詰めかけ、金は彼らを相手に共同記者会見を開くだけでなく、同宿取材も許可した。また、テレビのワイドショーに電話出演するなど、籠城中ひっきりなしにメディアに登場し、朝鮮人差別を告発するために事件を起こしたこと、自分がいかに過酷な境遇のなかで育ってきたかを懸命に訴える。要求した清水署の刑事の謝罪は21日にテレビを通じて行なわれたが、差別発言そのものには言及がなく、金にはとうてい受け入れられないものだった。このため彼はあらためて謝罪を求め、籠城を続行する。この間、自殺をほのめかした金を翻意させるべく、過去の事件で知り合った掛川署の元署長や、彼の主張を支持する文化人グループが説得を行なったが、彼は聞き入れようとしなかった。
籠城5日目の2月24日には、静岡県警本部長が清水署の刑事の発言についてあらためてテレビを通じて謝罪。金はこのあと同日午後、同宿者を解放するため旅館から出てきたところを、取材陣にまぎれこんだ刑事に取り押さえられ、逮捕にいたる。殺人・監禁・爆発物取締罰則違反等で起訴された彼は、一審、二審とも無期懲役の判決が下され、1975年には最高裁上告も棄却され、刑が確定した。しかし1999(平成11)年に仮釈放され、異例の措置ながら母の故郷である韓国・釜山に移住している。その後は講演や著述活動を行なっていたが、翌2000年には女性関係のトラブルから殺人未遂で逮捕されるなど、2010年に81歳で病死するまで波瀾続きの人生だった。獄中で結婚した夫人によれば、彼は韓国語が完璧でなかったため、周囲とさまざまな誤解が生じ、神経をいらだたせていたという(「文藝春秋」編集部編『私は真犯人を知っている 未解決事件30』文春文庫)。日本で生まれ育った金にとって、祖国であるはずの韓国もまた居場所のない“異国”であったのかもしれない。
なお、金が日本で服役中の1992年には、本田靖春のノンフィクション『私戦』をドラマ化した『実録犯罪史 金(キム)の戦争』がビートたけし主演で放送され、大きな反響を呼んだ。金は日本を離れる前に成田空港からたけし宛てに手紙をしたため、そこには「演じてくれてありがとう」と書かれていたという。