我慢と妥協とインスタグラム
私だって義務から解放されるのならば、いつまでもゲームをしていたい。好きな音楽を聴き、いつまでもTwitterでアホを煽って罵り合っていたい。しかしながら、現実で起きていることは生活そのものであって、カネがあろうがなかろうが、仕事や家庭がどれだけ円満に回っていようと、そこに横たわっているのは常に我慢と妥協であります。毎日を100%の幸福に包まれながら生きている奴は少なかろうと思います。いたら私が殺す。そのぐらい、現代社会を大過なく無難に生き抜くには忍耐が必要であり、自分を一定割合殺し、世の中と折り合い、クソみたいな投稿にハートをつけながら生きていくのが人生なのであります。もちろん、感動する画像もありますよ。心から「おめでとう」と贈りたい言葉もある。しかしながら、インスタ映えがもたらすマウント画像には、それを観る者の心に「いいなあ。あいつ、楽しそうだな」「幸せそうだな」という影を投げかけるのです。女の子のいない山本家は、女の子向けのプリキュアの宣伝が団らん中のテレビで映ると、そっと誰かがチャンネルを換えます。おそらくは、子供が欲しいのにいない家庭は子供画像を、伴侶が欲しくてもいない独身者は夫婦の仲睦まじい姿を、貧しい者は豪華な夜景を、友達のいない者はパーティーを、不健康な者はトライアスロンやマラソンに励む姿を……。無いものを持つ友人がそれを楽しんでいる姿は、羨望でもあり、ストレスでもある。持病があり運動禁止の私は、やっぱり筋トレに励みたかった。妻帯者が子供を学校に通わせていると、独身者の気ままで楽しそうな海外旅行はどうしても、どうしても「あー、いいなあ」と思ってしまうわけです。結婚をし、子供を儲けた以上は、家庭を大事にし、少ない学校の長期休みに合わせてバカ高い費用をかけ旅程をやりくりするしかないのです。どこ行ってもクッソ混んでるという。
そこまで言うならInstagramやめればいいって思うじゃないですか。FacebookもTwitterも止めたらどんなに幸せな人生が送れることでしょう。ネットに関わることで、どれだけの時間を無駄にしているか分からない。自分は自分の幸せを追求するために生きるべきだ。失われた時間は戻ってこない、その時間を自分にしかできない仕事に取り組むために割くべきじゃないか。そんなふうに考えていた時期が私にもありました。
しかしながら、気がつくとSNSを立ち上げているのです。書きたいことを書き、仲間内とグルーミングをするために。というか、ネットでSNSを2日も更新しなければ死亡説が流されるぐらい、この世の中は強い緊張感と相互監視のシステムが出来上がってしまっています。実際、あれ、あいつみないなと思ったらコインチェック社に軍資金ごっそり凍結されて自宅のトレーディングPCの前で半死半生の状態で家族に発見されたり、夫婦喧嘩の果てに奥さんにパソコン一式捨てられて呆然自失していたり、ネットにはそういう躍動感あるクズがあらゆるところにひしめいています。
お前はケーキバイキングでいちいち心を動かされるのか
そういうクズがやらかす事件の類や世の中の出来事に対する反応は、ネットに一番価値のある、輝ける瞬間だと思うのです。自分に自信のある不細工は夜景バックにグロ画像を、自分に自信のない不細工は公園で撮影した愛犬の姿を、Instagramにおさめる。著名人と映った写真を掲載しているのを見て、これは単なるミーハーなのか、営業で依頼された仕込みなのかを推測する。家族のいない奴はだいたい飯や風景の写真ばっかりが流れてきて、洒落た場所に出入りし始めたようなら「お。あのおっさんにもようやく遅い春がきたのか」と思い、愛妻家を自称している奴が家族の行楽写真を掲載しなくなったら何らかの不和ではないかと疑う。このように、どうでもいい深読みをするのもまた、ネットの楽しみ方なのであります。
一方、そういう画像について腹立たしいコメントも多数見られるのがネットです。何かあるたびに「ヤバイ」とか「パねえ」とか「感動した」などと絵文字つきで毒にも薬にもならない感想を垂れ流してくる知能指数の低い馬鹿も少なくありません。お前はケーキバイキングでいちいち心を動かされるほどの能無しなのか。携帯電話会社から無料の牛丼が支給されるのを1時間並んで待って喰うダメな人が行列のヤバさをinstagramに掲載しているのを見るたびに、世の中にはこういういろんな種類の馬鹿がいるから成り立っているのだなと感動を禁じ得ません。