昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2018/02/26

genre : ニュース, 政治

凡庸で的外れなワイドショー的空間

 ワイドショーで政治経済を議論し、テレビタレントが「市民目線」でコメントし、人々に影響を与える。しかしそのコメント内容がたいていの場合、ひどく凡庸で的外れであるというのを、私たちは散々見せつけられている。しかしながら「市民」は専門家ではないのだから、市民を代弁する役割を担わされているワイドショーのコメンテーターが市民目線で語れば、それが凡庸で的外れになってしまうのは当然の帰結だ。

 この凡庸で的外れなワイドショー的な空間が、いまのところ日本の最も多くの人をつなぎとめてしまっている場所であり、結果的には公共圏のようなものになってしまっている。この「ゾーン」をわれわれがどう扱えばいいのか、という課題については、メディアの大衆化が始まった80年代からすでに30年以上も経っているのに、未だなんら答えを出せていない。

デイリーメールがダメなら他はどうなのか?

 さらに、冒頭に挙げた「議論のためのソース」の問題もある。

 そもそも三浦さんがデイリーメールをソースとして紹介した「北朝鮮が暗号放送再開」の話は、タブロイド紙だけでなく、ロイターやBBC、ニューヨークタイムズなども記事にしている。その事実を押さえた上での話だが、「民主主義の議論におけるニュースソースはどの程度のレベルを求められるのか」という問題が生じている。

 デイリーメールを批判した人が、一方の口でリテラや日刊ゲンダイをソースにしているじゃないかということも指摘された。これはいくらなんでも典型的なダブルスタンダードだと思う。しかしそのダブスタを批判して問題が解決するわけじゃなく、じゃあDaily Mailやリテラがダメなら、ポストセブンやフライデーはいいのかどうか。この文春オンラインはどうなのか。

 そもそも、いったい誰がそれを決めるのか。

 デイリーメールを批判する人は、それは「労働階級向けのタブロイド紙である」と批判するが、それは日本で日刊ゲンダイや夕刊フジが疲弊した中高年会社員や高齢者の楽しみであるのと同じようなもので、言い方を変えれば「庶民目線のメディア」である。庶民のメディアをソースにしてはいけないということなのか?

三浦瑠麗氏 ©文藝春秋

三浦さんを批判する人が引き受けるべきもの

 デイリーメールのようなソースをもとに「ワイドナショー」のような情報バラエティで、差別を引き起こしそうな微妙かつクリティカルな問題を語るのがけしからん、というのであれば、それは一方で、この30年にわたって続いて来たメディアの市民化・大衆化にどこかで歯止めをかけなければならないという話に必ず発展することを忘れてはならない。三浦さんを批判する人・三浦さんの今回の件について論考する人は、その議論を引き受けなければならないのだ。

 あなた方はそれを引受ける勇気があるのか、ということである。私は、引き受けていきたいと思う。

「市民目線」と「衆愚化」は、表裏一体である。「きれいな市民」と「きたない大衆」がいるわけではない。人々は時に良い時もあり、時に悪い時もある。どこまでもクリーンで冷静で頭の良い市民なんていうものは幻想だ。愚かですぐに扇動される大衆が日本を覆っている、と思い込むのが幻想であるのと同じように。

この記事の写真(4枚)

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー