首脳陣のコミュニケーション術のひとつだったに違いない
ちなみに、雨が上がって朝から雁の巣球場で練習できるぞ!という日は、西戸崎合宿所にある若鷹寮に住む寮生だけが早朝グラウンドに集合しシートを上げるというのが基本線だった。のちに金子圭輔選手(現3軍内野守備走塁コーチ)がそう教えてくれた。
当時は12時30分プレイボールだったので選手の集合は8時50分ごろ。その前にグラウンドを使える状態にしておくというのだから、ただでさえギリギリまで寝ていたいであろうお年頃の若手たちが眠い目をこすりながら巨大防水シートのお世話をしていたと思うと大変だっただろうと察するが、そういったグラウンド整備に選手自らが関わる時代だった。
グラウンドの準備はそれだけで終わらない日もあった。シート上げが終わるやいなやリアカーで運ばれてきたのは、大小のバケツとたくさんの黄色いよれよれスポンジ。市営球場というのもあって天然芝の外野グラウンドは水はけが悪くへこんだ地面に雨水が溜まるのだ。特にレフトあたりが酷かった。そのよれよれスポンジを溜まった雨水の上に乗せるとドロドロ水が吸い取られていく。吸わせてはバケツに絞るという作業を選手たちは何度も繰り返し、バケツがいっぱいになると今度はフェンス下にある側溝まで運び流すということをやっていた。
ここで思い出すのは藤本博史2軍打撃コーチ(現監督)と真砂勇介選手の姿だ。藤本コーチがドロドロ水でいっぱいのバケツを運ぼうとすると真砂選手がすかさず手を貸した。運動会の何とか運びの競技みたいにふたりで仲良く小さなバケツを握りドロドロ水をこぼさないよう慎重に運んでいった。帰りの空バケツもまたふたり仲良く運んできたが、今思えば首脳陣のコミュニケーション術のひとつだったに違いない。1つのことを協力してやれば信頼関係も築けるというものだろう。
ただ心配だったのは、繊細にボールを操る選手たちが商売道具でもある大切な指先をこの過酷な作業に付き合わせていたことだ。スポンジを足で踏み泥水を吸わせる方法が主流ではあったが、中には押し寿司のように“おいしくなあれ”ときっと心で願いながら手でぎゅぎゅっと吸わせる選手もいた。塚田選手も丁寧に作業していたし千賀投手もそのひとりだった。手袋が破れ素手の選手もいた。
また長谷川選手がドロドロ水スポンジを絞る時は、多数派のぞうきん絞り方式ではなく、おにぎり握り方式だ。頼りになるこの職人の手で握るおにぎりは大きくて崩れにくく、でもほおばるとふっくら柔らかい……いつか長谷川選手が握ったほかほかおにぎりを一緒に食べてみたいな。お米はやっぱり山形県産かな。
結局、なぜ千賀投手が300万円の特大防水シートにスパイクで上がってしまったのか、そしてその後どうなったかは取材しそびれてしまったが、選手や首脳陣たちが自分たちのグラウンドを愛し大切にしていたことを記しておきたくて書かせてもらった。井出竜也2軍外野守備走塁コーチをはじめとする甲斐選手と愉快な仲間たちの楽しい草むしり大会やグラウンド整備今昔物語などほかのエピソードは、もしまた登板機会をいただけたらお伝えしたいと思う。
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