新卒で記者になるも、3ヵ月で心折れる
大学を出て新卒で就職した会社を、私はわずか3ヵ月で辞めた。もう16年前のことになる。ちょうど今頃の季節だ。
当時22歳の私は、ある全国紙の新聞社に記者として採用された。マスコミを志望して就活し、希望は叶った。しかし、すぐに心が折れた。夜討ち朝駆け(※取材対象者の自宅付近で、帰宅時や出勤前に待ち伏せる)の長時間労働、昼夜問わず発生する事件や事故、厳しい先輩記者の指導(※たまにボールペンを投げつけられた)、そして自身の取材力不足……。
無理だ。ここにいてはつぶれてしまう。この先のことはわからないが、ここにいるよりはいいだろう。退職届を出し、配属先の福岡から地元の岐阜へ逃げ帰った。会社内では、「最速で辞めた記者」とささやかれた。
今も6月末になると、あの鬱屈の3ヵ月を思い出す。で、なぜこんなことを書いたかというと、ジャイアンツのとある主力選手に、この上ないシンパシーを感じる男がいるからだ。
傷心で“入学辞退”した吉川
その選手とは、巧打好守の二塁手・吉川尚輝だ。2016年秋のドラフト1位。昨季は132試合に出場し143本もの安打を放った。今季も天才的なミートセンスを発揮している。二塁守備は華麗そのものだ。
吉川はかつて大学進学に際し、当初決まっていた亜細亜大への入学を辞退した過去をもつ。単に誘いを断ったとか、そういう軽い話ではない。18歳の吉川青年は、傷心しきっていた。もう野球をやめようとまで思い詰め、半ば逃げるように入学を辞退したのだ。
このエピソードは、吉川が大学4年生のときに各メディアで報じられている。年月が経った今、知らないファンの方も多そうなので、もう少しくわしく説明しよう。吉川は高校卒業直前の2月、亜細亜大の春季沖縄キャンプに参加した。しかし、日本一厳しいとされる亜細亜大の野球部になじめなかった。1ヵ月もたたず打ちひしがれた吉川は、沖縄を発つ飛行機を予約し、母に「飛行機のお金がないから、振り込んで」と電話をかけたのだ(2016年6月10日『スポーツ報知』より)。
“逃亡歴”でわかり合えた(?)インタビュー
故郷の岐阜に戻った吉川青年はその後、周囲の励ましを受け、母校(岐阜・中京高)の系列である中京学院大をぎりぎり3月に受験。再び白球を手にした。自然豊かな立地にある、中京学院大ののびのびした気風のもと、才能は一気に開花。大学4年時にはドラフト候補として全国舞台で躍動した。
同じような“逃亡歴”をもつ筆者だが、吉川が大学4年生のとき、何度か彼と話す機会を得た。筆者は新卒3ヵ月での離職後、流浪期間などを経て、フリーランスのスポーツライターという形でアマチュア野球の取材・記事執筆をしてきた(※今も東海3県で活動中)。ドラフト候補の吉川へのインタビューに赴き、私自身の“逃亡歴”も明かしつつ、入学辞退についてくわしく聞いてみた。
「なんとなく、吉川くんの当時の気持ちは想像がつきます」と切り出すと、吉川は「ハハハッ」とさわやかに笑い、こう続けた。
「あのときは厳しかったですね……。自分は向いていないんだなと、(亜細亜大に)行って確認できました。あのままやっていても、いずれ諦めていたと思います」
亜細亜大への入学内定は、高校の監督(当時)らの主導だったという。高校野球の強豪校の場合、有力選手の進路は、監督らが裁量するケースも多い。本人の意向は汲みつつも、監督と大学野球部の間で話し合われ、決まっていく。