制作者側として心のどこかで視聴者の良心を信じきっていた。AVをフィクションだとちゃんと理解したうえで、個人の娯楽として消費していると思っていたが、それは違った。
作品を生み出した者の責務として
一個人がそこまで深く考える必要はないと思われるかもしれないが、制作に関わる一人一人が、作品としての倫理観やそれをリリースすることで社会に与える影響を考慮せずに積み重ねてきた結果が今の状況なのだ。
世の中の人が持つ価値観や倫理観は時代によって徐々に変化していく。どんな仕事も、どんな文化的活動も「それはさすがにもうやってはいけない」という線引きをその都度変更して適応してきた。それと同じようにアダルトなコンテンツも適宜アップデートしていかなければならない時期を迎えていると思う。
このようなことは引退してからでなければ発信することができなかった。業界を離れたことでより俯瞰的に物事を見られるようになったからでもあるが、現役の頃はキャスティング権を持つ者に擦り寄る方が賢明だと思い、問題を分かっていたとしても自分が身を置く業界に対して疑問をなげかけようとしなかった。
今後は少しの期間だったとしても世に作品を生み出した者の責務として、この問題に取り組んでいきたい。
神野藍としての道
正直な話「なるようになれ」と思いながら、勢いで神野藍として活動し始めた。初めから何か大きな仕事の話があったわけでも、きちんとした将来の筋書きがあるわけでもなかった。「文筆家」と名乗り始めたのも、そうなれたらいいなという気持ちを込めての部分もあった。
今では執筆の仕事も少しずつ増えてきて、手ごたえを感じている。現在の仕事は過去の仕事に関連したものが多い。自分がこれまで頑張ってきたことでもあるので、それを生かして仕事ができるのならという気持ちもあるし、何よりも神野藍として世間への露出を増やしていかなければならない時期でもあるので、仕事を選り好みするつもりはない。
しかし、やはりそれだけではいつかは仕事の限界も迎えるだろうし、これからは神野藍としての強みを作っていかないといけないことは自覚している。そのためにも今の仕事で神野藍としての認知度を高めつつ、自らの知見を広げるために様々な分野に物怖じせず飛び込んでいきたいと思う。
まだまだ神野藍としての道は歩み始めたばかりで不安なことも多い。だが怖がっているばかりでは何も始まらない。かつて渡辺まおがAVの世界に飛び込み、捨て身で努力したように、神野藍も文筆家として大成できるように身を引き締めて精励していこうと思う。
写真=佐藤亘/文藝春秋
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