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パズーやシータではない…『天空の城ラピュタ』で宮﨑駿監督がいちばん思い入れ深く描いた登場人物の名前

source : 提携メディア

genre : エンタメ, 映画

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このスタジオ探しには、ちょっとしたエピソードがあった。物件を探す中で、3人が不動産屋から門前払いを食らうことがあったという。それも一度だけでなく、何度か繰り返された。そこで鈴木はどうも何かおかしいと考えはじめた。

鈴木が出した結論は「服装」。不動産屋巡りをしている時、ちゃんとスーツを着ていたのは原のみ。鈴木、高畑は、普段の恰好とそう変わらない薄手のジャンパーだった。いい歳した大人がジャケットも着ないで歩いているから、不動産屋は怪しいと思い、警戒したのではないか、というのが鈴木の分析の結果だった。鈴木の指摘を受けて、翌日より高畑はジャケットを着てスタジオ探しを再開することにした。

すると、成果がさっそくあらわれ、その最初の日に吉祥寺駅の近くで目指す物件を見つけることができた。新築されていた第二井野ビルで、4階建ての2階部分を賃借することになった。フロアーの中央にエレベーター部分を持つ「コ」の字型のワンフロアーで、広さは76.6坪あった。1階にはテナントとして喫茶店が入っており、スタッフの打ち合わせ場所などとしても活用されることになった。

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「1作ごとに解散」という運営方針

こうして1985年6月15日、ついにスタジオ開きが行われた。2日後の17日には宮﨑がスタジオ入り。以後、7月18日に野崎俊郎美術監督、8月5日に丹内司作画監督、8月16日に金田伊功原画頭、9月6日に山本二三美術監督と、メインスタッフが次々とスタジオ入りをした。

なおスタジオジブリの運営については、高畑が大きな方針を決めていた。それは会社経営のリスクを減らすため、1作作るごとにスタッフを集め、解散するという方針だ。この制作スタイルは、社員制度に移行する『おもひでぽろぽろ』の前作『魔女の宅急便』まで続くことになる。また、高畑自身は『風の谷のナウシカ』と同様に、プロデューサーという立場で『天空の城ラピュタ』に参加することが決まっていた。