『シン・仮面ライダー』で庵野秀明は一体、何に反抗したのか。山上徹也と木村隆二という二人の“テロリスト”の声はなぜ黙殺されるのか。山口二矢からネオ麦茶、加藤智大、青葉真司までテロルの系譜を辿る、批評家・大塚英志氏による短期集中連載第1回冒頭部の部分転載です。
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二つのライダーと“封印小説”
二つの新しい『仮面ライダー』が思わぬ拒否反応にあっている。
一つはAmazonプライムで最近配信された白石和彌監督の『仮面ライダーBLACK SUN』、もう一つは庵野秀明監督の『シン・仮面ライダー』である。ともに『仮面ライダー』50周年を記念しての大作で、無論、評価する声も少なくないし、庵野作品はそもそも毀誉褒貶が極端に分かれるものではある。
『シン・』の方は公開直後、一部のYouTuberらによってネガティブ評価が誘導され、その後、NHKで放送されたメイキングのドキュメンタリーが分水嶺となって好意的な評価に転じた印象もある。
『BLACK SUN』や『シン・』だけでなく、過去の名作の「つくり直し」はそれこそ熱心なファンたちの脳内に「オレ版」が存在し、解釈の相違が無数にあるので厄介である。ぼくなどは子供の頃から育んだ脳内作品を実際に本編にできた庵野を正直にうらやましいと思うが。
そもそも『シン・』シリーズというのはぼくが理解するに、「こうあるべき」だったのに、様々な条件、つまり時代の制約、予算、コンプライアンス、創り手たちの技術、大人の事情を含め「ああなったしまった」ことへのいわば「やり直し」の作業に付されたレーベル名であるように思う。
だから「やり直し」といってもただ脳内作品の現実化ではなく、旧作をつくり上げていた方法や美学の歴史を遡及し、それを原理主義的に実現していくのが『シン・』の意味するところで、それはノスタルジーや旧作へのファン的な愛情と必ずしも一致しない。
『シン・仮面ライダー』でいえばまず物議を醸し出したのは、冒頭の1号ライダーによるショッカー戦闘員の「殺戮」と形容してもいいシークエンスである。1号ライダーがその他大勢的な戦闘員を倒すと彼らは頭蓋骨を砕かれ、血しぶきを上げ、ライダーのマスクが返り血を浴びる。
しかしそこにこそ明瞭に『シン・』の原理が現われている。
その原理は互いに重なり合うが、三つある。