『シン・仮面ライダー』の三つの原理
一つは短いカット割りと、異様に変化するアングルやブロッキングサイズを繋ぐ手法である。
かつて「物体をあらゆる角度から捉える」手法に衝撃を受け、それを日記に書き残したのは、敗戦直前、アニメ『桃太郎 海の神兵』を見た直後の手塚治虫少年である。庵野もまた物体をあらゆる角度から捉えようとしているのは『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のポスターのローアングルのエッフェル塔が明示するように、この「方法」こそが、彼の映像の根本を成す「美学」である。『シン・仮面ライダー』でも、メインのカメラ以外に20を超えるスマホを各所に配置した撮影方法から「あらゆる角度への欲求」はうかがえる。
こういう「あらゆる角度」への願望の元を辿れば、手塚少年を通り越し、エッフェル塔をローアングルで撮り、そして塔を登りつつその変化を執拗に追ったドイツの写真家ジュメール・ククル『メタル』あたりに始まりがある。
それを世界を見る方法としたのが、ソビエトの「カメラを持った男」ことジガ・ヴェルトフである。ヴェルトフはカメラを担ぎ、鉄塔をよじ登り、迫る列車の線路に身を横たえ、自らの身体をクレーンで吊るした。バイクにカメラを乗せて疾走もした。
そのヴェルトフの撮影法に、エイゼンシュテインのモンタージュをセットしたのが、ソビエトロシアのプロパガンダ映画の方法である。それを転用して戦時下日本のプロパガンダ映画である「文化映画」の方法が生まれる。その際、物理的に撮影不可能であったり、あるいは既に終わってしまった出来事を「あらゆる角度」から再現するのが特殊撮影であり、東宝の「文化映画」の部署でその腕を磨いたのが円谷英二であることは映画史ではよく知られる。
ちなみにヴェルトフもまた特撮の開拓者であった。
手塚が見たアニメ『桃太郎 海の神兵』は手塚が「文化映画だ」とも当時感じたように、モンタージュと「あらゆる角度」で撮る手法に貫かれていた。
そうやって実装された方法と美学が、戦後の円谷作品や宮崎駿らのアニメを経て庵野にどう至ったかは、彼がそれを自覚しようがしまいが、一つの歴史である。