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『シン・仮面ライダー』は石ノ森版ライダーだ

 二つめの原理は、庵野が原典として参照したのは石ノ森章太郎版のまんが原作である、ということだ。

 TVシリーズ『仮面ライダー』は、いわゆるコミカライズ版がすがやみつるら石ノ森プロのアシスタント出身者によって制作されたが、この最初の『ライダー』と『仮面ライダーBLACK SUN』の元となる『仮面ライダーBlack』だけが、石ノ森の手によるまんが版が「原作」としてある。

 庵野はTV版だけでなく石ノ森版にも『シン・』で再現するべき原理を見出しているのだ。

 それはプロットだけでない。

 何故なら石ノ森版『ライダー』は単にメディアミックス作品でなく方法上の実験作であるからだ。石ノ森章太郎という人は常にまんが表現上の実験を怠らなかった人で、この作品もまた例外ではない。石ノ森は手塚から継承した自らの映画的手法(つまり「あらゆる角度」によるモンタージュ)を一度、実写の『ライダー』の映像を介してつくり直そうとしているのだ。

 まんが版ではTV版『ライダー』が写実的に描かれるローアングルがある。そこにパースや構図のそれまでの石ノ森作品になかった変化がある。そうやって自作の実写版を介して、改めて受け止めようとしていたまんがの映画性を庵野は『シン・仮面ライダー』で実現している。

漫画版『仮面ライダー』(秋田文庫)

 庵野作品はこれまでアニメや特撮系へのオマージュの印象が強かったが、考えてみれば、ぼくと庵野は世代は変わらない。だとすればトキワ荘グループのまんがの受容者でも当然あって、『シン・仮面ライダー』の「シン・」の原理を石ノ森のまんがとしても驚くことではない。

 一部のファンが期待したTV版の「脳内作品」との齟齬は、この石ノ森版を踏まえた庵野の「脳内作品」との齟齬として多くは説明できる。

庵野秀明はなぜ「殺陣」を否定したか

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 さて、文化映画的原理、石ノ森的原理に加えて三つめは「身体性」を巡る原理である。

『仮面ライダー』の「世界」に於いてショッカーの戦闘員は殺陣でなぎ倒されるためにいる。それは映画に於いて様式化された「型」である。

 しかし、庵野は生身の「肉体」を彼らに与えた。

 これは石ノ森原理主義と重なり合う問題でもあるが、石ノ森は「原作」のライダーを身体に手術跡が残る人間として描き(それは『シン・』でも描かれる)、仮面はそれを隠すためのものとした。

 こういうまんがのキャラクターに生身の肉体を与えるのは、『サイボーグ009 神々との闘い』で、ライダーと同じ改造人間である主人公とヒロインのベッドシーンを描いたことにも見える問いかけである。
そして遡れば、敗戦前後、手塚が習作や初作品でディズニー的なキャラクターに生身の身体を実装したことからその歴史が始まる。手塚の「絵」はミッキー様式の日本ローカライズだが、そこにミッキーには決して訪れない成長や老いや死や性といった身体性を実装したことが画期であった。だからアトムはミッキーの書式で書かれた「ロボット」だが「成長しない」ことを糾弾される。石ノ森もサイボーグのキャラクターたちが互いの肉体の所在を確かめ合うようなベッドシーンを描く。

 庵野が今回の『シン・』に持ち込んだのは手塚や石ノ森が「記号」的キャラクターにその様式で本来、描き得ない「身体」を導入したのと同じ手続きである。

 庵野が試みたのは、子供向けの『ライダー』の中で特撮や殺陣によっていわば奪われ様式化された、つまりキャラクター化された演技に身体性を実装することであった。だから流血させ、殺すだけでなく、俳優の動きがぐだぐだのシークエンスに一発OKを出し、殺陣の専門家でなく俳優にアクションを考えさせた。

 ぼくにはそういう手塚から石ノ森へと経由されたまんが史の原理を庵野が実写で導入しようとしているのはやはり、興味深かった。しかし考えてみれば『エヴァ』でシンジのマスターベーションシーン(平井和正と池上遼一の劇画『スパイダーマン』がかつて冒頭で同様のシークエンスをやはり身体性のないアメコミヒーローに演じさせてみせたが)をとうに描いてもいて、身体性の実装は一貫して庵野アニメの主題であったと改めて感じる。