『シン・仮面ライダー』は何を破壊したか?
さて、ここまでの『シン・仮面ライダー』論は枕である。
『シン・』でぼくが興味深かったのは、NHKのドキュメンタリーでみせたスタッフとの対立ぶりである。それは上記の三つめの特撮アクションへの身体性をめぐって生じたもので、最終的に殺陣の責任者が降板も言い出す。庵野が謝罪し撮影を継続するが、この殺陣の専門家は恐らく庵野が何を求めているのかを最後まで理解できなかった、というよりはしたくなかったとも感じる。
恐らく『シン・』の撮影の現場は、殺陣だけでなく他の専門スタッフの神経をも幾重にも逆なでするものではなかったか。
本来のカメラの存在を無視するような大量のスマホの導入や、現場に行ってアングルを探しまくる姿への、冷笑に似た空気は「あらゆる角度」という原理をめぐる軋轢の所在が感じられる。
庵野の原作への拘泥を知らぬ状況での行き違いも、マスクのデザインなどをめぐってあったのではないか。
だが、ドキュメンタリー内でのスタッフの空気、そして、恐らくはその中で描かれた庵野に対しての一部の視聴者の反発は、こういった「原理主義」としての庵野への理解・無理解というよりは、「特撮」や「殺陣」の約束事を壊しにかかる庵野への反発ではなかったか。
当然だが、アニメでも特撮でも一種の約束事がある。その約束事の遵守が様式的に美学になることがあるのを否定はしないが、ファンはその形式性にしばし安住したがり、製作者もそれに甘えることがある。
庵野はそれを壊そうとしている。
ぼくはドキュメンタリーを観ていて、庵野の指示や説明が俳優には確実に伝わっているのにスタッフに伝わっていないのが興味深かった。それは彼らが守ってきたものの否定であり、破壊であるからだ。一方で役者にとって肉体を求められるのは自明である。つまりキャラクターでなく生身の自分を演じよ、と解放されたわけで、しかし若い俳優たちはそれをよくこなしている。それを引き出したのは庵野の力量だ。
しかしスタッフにとっては庵野の考えは「特撮」という様式を否定することとしてしか受け止められない。実際には様式を崩すために様式は必要とされるのだが、その否定的媒介になることが屈辱にも思えたのかもしれない。
こういう様式は、一部の「おたく」にとってはその所在を指摘し、理解するのが自らの「教養」を示す所作でもある。それが当初の批判の背景の一つになるだろう。一方でネットの反応で庵野はもっと説明をすべきだったなどという批判もあるが、殺陣のスタッフの反発は自分たちの様式が否定されたことへの怒りである。
庵野がまるで特撮の「決まり」や「体制」を守らない人間として糾弾されている印象であった。
改めてSNSなどを見ていくと『シン・仮面ライダー』への一つ一つの批判は些細なことで、直接何人かと話していると生理的に拒否しているようでもあり、それは庵野や『シン・仮面ライダー』が、特撮『仮面ライダー』という「体制」に対して「反体制」としてふるまった点にあるように思えた。
“王殺し”を描いた『仮面ライダーBLACK SUN』
確かに庵野の立ち位置を体制への批判者などと形容すると大仰ではある。
しかしぼくなどは世代的に石ノ森原理主義に共感しただけでなく、かつて東日本大震災後のジブリ展で公開した映像で、巨神兵によって東京を焦土と化して見せた庵野の「不穏当さ」を久しぶりに感じてときめいた。しかし、その『シン・』より先に『ライダー』ファンたちの一部は『仮面ライダーBLACK SUN』という、ポリティカルな意味で反体制的に目論まれた作品を突きつけられている。大袈裟に言えば二つの左傾化したライダーを立て続けに見せられたのである。
実際『BLACK SUN』は『ライダー』への「政治」の実装が一部のファンの憤りの対象となっている。
何しろこの『ライダー』は、リアルタイムの政治状況の強烈なカリカチュアとしてまずは徹底して目論まれている。
(タイトル、見出しは編集部によるものです)
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批評家・大塚英志氏による短期集中連載「特撮とテロル」は「文藝春秋 電子版」に掲載されています。