特撮とテロル 第1回

庵野秀明は「仮面ライダー」の何を破壊したか?

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『シン・仮面ライダー』で庵野秀明は一体、何に反抗したのか。山上徹也と木村隆二という二人の“テロリスト”の声はなぜ黙殺されるのか。山口二矢からネオ麦茶、加藤智大、青葉真司までテロルの系譜を辿る、批評家・大塚英志氏による短期集中連載第1回。

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二つのライダーと“封印小説”

 二つの新しい『仮面ライダー』が思わぬ拒否反応にあっている。

 一つはAmazonプライムで最近配信された白石和彌監督の『仮面ライダーBLACK SUN』、もう一つは庵野秀明監督の『シン・仮面ライダー』である。ともに『仮面ライダー』50周年を記念しての大作で、無論、評価する声も少なくないし、庵野作品はそもそも毀誉褒貶が極端に分かれるものではある。

『シン・』の方は公開直後、一部のYouTuberらによってネガティブ評価が誘導され、その後、NHKで放送されたメイキングのドキュメンタリーが分水嶺となって好意的な評価に転じた印象もある。

『BLACK SUN』や『シン・』だけでなく、過去の名作の「つくり直し」はそれこそ熱心なファンたちの脳内に「オレ版」が存在し、解釈の相違が無数にあるので厄介である。ぼくなどは子供の頃から育んだ脳内作品を実際に本編にできた庵野を正直にうらやましいと思うが。

仮面ライダー大集結特展(2018年) ©時事通信社

 そもそも『シン・』シリーズというのはぼくが理解するに、「こうあるべき」だったのに、様々な条件、つまり時代の制約、予算、コンプライアンス、創り手たちの技術、大人の事情を含め「ああなったしまった」ことへのいわば「やり直し」の作業に付されたレーベル名であるように思う。

 だから「やり直し」といってもただ脳内作品の現実化ではなく、旧作をつくり上げていた方法や美学の歴史を遡及し、それを原理主義的に実現していくのが『シン・』の意味するところで、それはノスタルジーや旧作へのファン的な愛情と必ずしも一致しない。

『シン・仮面ライダー』でいえばまず物議を醸し出したのは、冒頭の1号ライダーによるショッカー戦闘員の「殺戮」と形容してもいいシークエンスである。1号ライダーがその他大勢的な戦闘員を倒すと彼らは頭蓋骨を砕かれ、血しぶきを上げ、ライダーのマスクが返り血を浴びる。

 しかしそこにこそ明瞭に『シン・』の原理が現われている。

 その原理は互いに重なり合うが、三つある。

『シン・仮面ライダー』の三つの原理

 一つは短いカット割りと、異様に変化するアングルやブロッキングサイズを繋ぐ手法である。かつて「物体をあらゆる角度から捉える」手法に衝撃を受け、それを日記に書き残したのは、敗戦直前、アニメ『桃太郎 海の神兵』を見た直後の手塚治虫少年である。庵野もまた物体をあらゆる角度から捉えようとしているのは『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のポスターのローアングルのエッフェル塔が明示するように、この「方法」こそが、彼の映像の根本を成す「美学」である。『シン・仮面ライダー』でも、メインのカメラ以外に20を超えるスマホを各所に配置した撮影方法から「あらゆる角度への欲求」はうかがえる。

 こういう「あらゆる角度」への願望の元を辿れば、手塚少年を通り越し、エッフェル塔をローアングルで撮り、そして塔を登りつつその変化を執拗に追ったドイツの写真家ジュメール・ククル『メタル』あたりに始まりがある。

 それを世界を見る方法としたのが、ソビエトの「カメラを持った男」ことジガ・ヴェルトフである。ヴェルトフはカメラを担ぎ、鉄塔をよじ登り、迫る列車の線路に身を横たえ、自らの身体をクレーンで吊るした。バイクにカメラを乗せて疾走もした。

 そのヴェルトフの撮影法に、エイゼンシュテインのモンタージュをセットしたのが、ソビエトロシアのプロパガンダ映画の方法である。それを転用して戦時下日本のプロパガンダ映画である「文化映画」の方法が生まれる。その際、物理的に撮影不可能であったり、あるいは既に終わってしまった出来事を「あらゆる角度」から再現するのが特殊撮影であり、東宝の「文化映画」の部署でその腕を磨いたのが円谷英二であることは映画史ではよく知られる。

大塚英志著『シン・論』(太田出版)

 ちなみにヴェルトフもまた特撮の開拓者であった。

 手塚が見たアニメ『桃太郎 海の神兵』は手塚が「文化映画だ」とも当時感じたように、モンタージュと「あらゆる角度」で撮る手法に貫かれていた。

 そうやって実装された方法と美学が、戦後の円谷作品や宮崎駿らのアニメを経て庵野にどう至ったかは、彼がそれを自覚しようがしまいが、一つの歴史である。

『シン・仮面ライダー』は石ノ森版ライダーだ

 二つめの原理は、庵野が原典として参照したのは石ノ森章太郎版のまんが原作である、ということだ。

 TVシリーズ『仮面ライダー』は、いわゆるコミカライズ版がすがやみつるら石ノ森プロのアシスタント出身者によって制作されたが、この最初の『ライダー』と『仮面ライダーBLACK SUN』の元となる『仮面ライダーBlack』だけが、石ノ森の手によるまんが版が「原作」としてある。

 庵野はTV版だけでなく石ノ森版にも『シン・』で再現するべき原理を見出しているのだ。

 それはプロットだけでない。

 何故なら石ノ森版『ライダー』は単にメディアミックス作品でなく方法上の実験作であるからだ。石ノ森章太郎という人は常にまんが表現上の実験を怠らなかった人で、この作品もまた例外ではない。石ノ森は手塚から継承した自らの映画的手法(つまり「あらゆる角度」によるモンタージュ)を一度、実写の『ライダー』の映像を介してつくり直そうとしているのだ。

 まんが版では版『ライダー』が写実的に描かれるローアングルがある。そこにパースや構図のそれまでの石ノ森作品になかった変化がある。そうやって自作の実写版を介して、改めて受け止めようとしていたまんがの映画性を庵野は『シン・仮面ライダー』で実現している。

漫画版『仮面ライダー』(秋田文庫)

 庵野作品はこれまでアニメや特撮系へのオマージュの印象が強かったが、考えてみれば、ぼくと庵野は世代は変わらない。だとすればトキワ荘グループのまんがの受容者でも当然あって、『シン・仮面ライダー』の「シン・」の原理を石ノ森のまんがとしても驚くことではない。

 一部のファンが期待したTV版の「脳内作品」との齟齬は、この石ノ森版を踏まえた庵野の「脳内作品」との齟齬として多くは説明できる。

庵野秀明はなぜ「殺陣」を否定したか

 さて、文化映画的原理、石ノ森的原理に加えて三つめは「身体性」を巡る原理である。

『仮面ライダー』の「世界」に於いてショッカーの戦闘員は殺陣でなぎ倒されるためにいる。それは映画に於いて様式化された「型」である。

 しかし、庵野は生身の「肉体」を彼らに与えた。

 これは石ノ森原理主義と重なり合う問題でもあるが、石ノ森は「原作」のライダーを身体に手術跡が残る人間として描き(それは『シン・』でも描かれる)、仮面はそれを隠すためのものとした。

 こういうまんがのキャラクターに生身の肉体を与えるのは、『サイボーグ009 神々との闘い』で、ライダーと同じ改造人間である主人公とヒロインのベッドシーンを描いたことにも見える問いかけである。
そして遡れば、敗戦前後、手塚が習作や初作品でディズニー的なキャラクターに生身の身体を実装したことからその歴史が始まる。手塚の「絵」はミッキー様式の日本ローカライズだが、そこにミッキーには決して訪れない成長や老いや死や性といった身体性を実装したことが画期であった。だからアトムはミッキーの書式で書かれた「ロボット」だが「成長しない」ことを糾弾される。石ノ森もサイボーグのキャラクターたちが互いの肉体の所在を確かめ合うようなベッドシーンを描く。

 庵野が今回の『シン・』に持ち込んだのは手塚や石ノ森が「記号」的キャラクターにその様式で本来、描き得ない「身体」を導入したのと同じ手続きである。

 庵野が試みたのは、子供向けの『ライダー』の中で特撮や殺陣によっていわば奪われ様式化された、つまりキャラクター化された演技に身体性を実装することであった。だから流血させ、殺すだけでなく、俳優の動きがぐだぐだのシークエンスに一発OKを出し、殺陣の専門家でなく俳優にアクションを考えさせた。

 ぼくにはそういう手塚から石ノ森へと経由されたまんが史の原理を庵野が実写で導入しようとしているのはやはり、興味深かった。しかし考えてみれば『エヴァ』でシンジのマスターベーションシーン(平井和正と池上遼一の劇画『スパイダーマン』がかつて冒頭で同様のシークエンスをやはり身体性のないアメコミヒーローに演じさせてみせたが)をとうに描いてもいて、身体性の実装は一貫して庵野アニメの主題であったと改めて感じる。

『シン・仮面ライダー』は何を破壊したか?

 さて、ここまでの『シン・仮面ライダー』論は枕である。

『シン・』でぼくが興味深かったのは、NHKのドキュメンタリーでみせたスタッフとの対立ぶりである。それは上記の三つめの特撮アクションへの身体性をめぐって生じたもので、最終的に殺陣の責任者が降板も言い出す。庵野が謝罪し撮影を継続するが、この殺陣の専門家は恐らく庵野が何を求めているのかを最後まで理解できなかった、というよりはしたくなかったとも感じる。

 恐らく『シン・』の撮影の現場は、殺陣だけでなく他の専門スタッフの神経をも幾重にも逆なでするものではなかったか。

 本来のカメラの存在を無視するような大量のスマホの導入や、現場に行ってアングルを探しまくる姿への、冷笑に似た空気は「あらゆる角度」という原理をめぐる軋轢の所在が感じられる。

 庵野の原作への拘泥を知らぬ状況での行き違いも、マスクのデザインなどをめぐってあったのではないか。

 だが、ドキュメンタリー内でのスタッフの空気、そして、恐らくはその中で描かれた庵野に対しての一部の視聴者の反発は、こういった「原理主義」としての庵野への理解・無理解というよりは、「特撮」や「殺陣」の約束事を壊しにかかる庵野への反発ではなかったか。

 当然だが、アニメでも特撮でも一種の約束事がある。その約束事の遵守が様式的に美学になることがあるのを否定はしないが、ファンはその形式性にしばし安住したがり、製作者もそれに甘えることがある。

 庵野はそれを壊そうとしている。

 ぼくはドキュメンタリーを観ていて、庵野の指示や説明が俳優には確実に伝わっているのにスタッフに伝わっていないのが興味深かった。それは彼らが守ってきたものの否定であり、破壊であるからだ。一方で役者にとって肉体を求められるのは自明である。つまりキャラクターでなく生身の自分を演じよ、と解放されたわけで、しかし若い俳優たちはそれをよくこなしている。それを引き出したのは庵野の力量だ。

 しかしスタッフにとっては庵野の考えは「特撮」という様式を否定することとしてしか受け止められない。実際には様式を崩すために様式は必要とされるのだが、その否定的媒介になることが屈辱にも思えたのかもしれない。

 こういう様式は、一部の「おたく」にとってはその所在を指摘し、理解するのが自らの「教養」を示す所作でもある。それが当初の批判の背景の一つになるだろう。一方でネットの反応で庵野はもっと説明をすべきだったなどという批判もあるが、殺陣のスタッフの反発は自分たちの様式が否定されたことへの怒りである。

 庵野がまるで特撮の「決まり」や「体制」を守らない人間として糾弾されている印象であった。

 改めてSNSなどを見ていくと『シン・仮面ライダー』への一つ一つの批判は些細なことで、直接何人かと話していると生理的に拒否しているようでもあり、それは庵野や『シン・仮面ライダー』が、特撮『仮面ライダー』という「体制」に対して「反体制」としてふるまった点にあるように思えた。

“王殺し”を描いた『仮面ライダーBLACK SUN』

 確かに庵野の立ち位置を体制への批判者などと形容すると大仰ではある。

 しかしぼくなどは世代的に石ノ森原理主義に共感しただけでなく、かつて東日本大震災後のジブリ展で公開した映像で、巨神兵によって東京を焦土と化して見せた庵野の「不穏当さ」を久しぶりに感じてときめいた。しかし、その『シン・』より先に『ライダー』ファンたちの一部は『仮面ライダーBLACK SUN』という、ポリティカルな意味で反体制的に目論まれた作品を突きつけられている。大袈裟に言えば二つの左傾化したライダーを立て続けに見せられたのである。

 実際『BLACK SUN』は『ライダー』への「政治」の実装が一部のファンの憤りの対象となっている。

 何しろこの『ライダー』は、リアルタイムの政治状況の強烈なカリカチュアとしてまずは徹底して目論まれている。

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source : 文藝春秋

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