私たちは知らず知らずのうちに「体育=スポーツ」だと解釈しがちだが、実はそうではない。両者は似て非なるものであり、そこには手段と目的という明確な違いがある。
スポーツは「気晴らし」であるべき
ではなぜスポーツが体育の教材になっているのか。からだを育てるためにはスポーツがふさわしい。そう無意識的に私たちが考えているのはなぜか。
スポーツは、「気晴らし」が語源であることからも、本来的には楽しむものとしてある。音楽や美術などと同様に文化的な営みであるといっていい(それをなりわいとするプロスポーツはまた別の側面がある)。からだ全体を使って勝敗を競い合う文化としてのスポーツの目的は楽しむこと、つまり爽快さを味わうことにある。楽しみながらからだを育てることができるという点で、スポーツが選ばれている。
「運動ギライ」を量産する現在の体育授業
だが現実に目を向ければそうではない。競技力の向上が目的化した体育を苦痛に感じる「体育ギライ」は後を絶たず、それが高じて運動そのものを毛嫌いする「運動ギライ」を生み出している。学習指導要領にある「生涯にわたって運動に親しむ資質」を育てられていない。それどころか運動から目を背ける態度を身に付けてしまっている。運動とはしんどくてつらいもので、できることなら避けたいと望む人たちを量産している。
原因はいくつか考えられる。そのなかからひとつ挙げるとすれば「到達目標の高さ」だ。
たとえばボール運動では、「ボールを持たないときの動き」の習得が求められる。バスケットボールの試合では、往々にして経験者や生来の運動好きな子供たちだけでパスをつなぎがちだ。その傍らには、ただ立ち尽くすしかできない子供が少なからずいる。その子供は、「ボールを持たないときの動き」ができないからパスがもらえない。だから、この動きを身に付けるべく指導を行うようにと学習指導要領には記載されている。