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なぜ「体育の授業で運動が嫌いになった」「大人になってスポーツが楽しい」という人がこれほど多いのか?

source : 提携メディア

genre : ライフ, 教育, スポーツ

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私はこの到達目標の高さが、「体育ギライ」を生む要因ではないかと考えている。

どれだけ挑戦してもできない経験が積み重なり、がんばってもできない自分にはセンスがないと思い込む。「できなさ」ばかりが強調されるなかで苦手意識が生まれ、だんだん楽しめなくなる。そのうち運動習得に不可欠な意欲が減退し、やがてスポーツおよび体育のみならず運動そのものが嫌いになる。

泳ぎを覚えたばかりなのに荒波が立つ海に放り込まれたかのような、そんな過酷さを、当の子供たちは感じているのではないだろうか。

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「できなかったけど楽しかった」経験こそが重要

この悪循環を断ち切るには、いうまでもなく到達目標を下げることだ。

学習指導要領にある「生涯にわたって運動に親しむ資質と能力の基礎」および「楽しく明るい生活を営む態度」を育てる目標を達成するには、「体育は楽しかった」と学校生活を終えることで果たされる。多少のできなさを抱えつつも総じて楽しい経験だったと記憶に残れば、大人になってふとしたときにちょっと運動でもしてみるかと思えるはずだ。

たとえ「ボールを持たないときの動き」ができなくとも、思うようにパスがつながらなくても、取り組み自体が楽しければそれでいい。理解という「結果」が問われる国語や数学などの座学とは違い、体育は、できないことをどうにかしてできるようにと意欲的に取り組む「プロセス」そのものに意味がある。

ああでもない、こうでもないという身体的な試行錯誤を通じて運動感覚は錬磨され、からだの使い方がうまくなって体力がつく。技能が身に付いたかどうかではなく、その習得に向けて悪戦苦闘することそのものが成果となる。

このプロセスを楽しめるレベルにまで到達目標を下げる。これが学校体育を見直すときの大切な視点だ。

より高度なプレーを求めるならば部活動がある

それでは物足りない、もっと高度なプレーがしたい、さらなる競技力の向上を目指したい――。そう望むのであれば部活動に入ればいい。経験者が幅を利かす空気を緩め、たとえ初心者であっても受け入れられる余裕を部活動につくる。勝利至上主義へと陥りやすい全国大会への過熱を抑え、指導者が初心者指導を身に付ければいい。

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