解剖学者の養老孟司氏と経済学者の成田悠輔氏による対談「AIは人間を不幸にする?」を一部転載します(文藝春秋2023年8月号)。

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「わかる」とは何か

 成田 養老さんが最近出版されたエッセイ『ものがわかるということ』を読んでみました。解剖や自然の世界を通して養老さんが培養されてきたものの見方や考え方が煮詰めすぎずにサラッと素描されていて、異様に読みやすかったです。

 ただ、表面的に読みやすいからわかった気になってるだけで、実は何もわかっていないんじゃないか……そんな気持ちにさせられて、「わかる」と「わからない」が表裏一体になっています。

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『ものがわかるということ』(祥伝社)

 養老 そうですか。

 成田 実はその感覚は、自分にとっては身近なものです。僕の研究では社会や経済、教育などを扱うのですが、バシッと「わかった」感覚になることはないからです。人間や社会が関わる現象のほとんどは、人間がわかったり、理解したり、ましてや法則化することはまず不可能だというところから出発して、諦めつつ研究を続けています。

「わかる」という感覚は、数学や哲学みたいに概念や記号だけで完結できる領域、一部の自然科学みたいにバシッと事実や法則性を確定できる領域のようなごく一部でだけ成立しえる“フィクション的な感覚”なのではないでしょうか。

 養老 本の前書きにも書きましたが、若い頃は、勉強すれば何でも「わかる」と思っていました。でも、80代の半ばを超えて人生を振り返ってみると、わかろうわかろうとしながら、結局はわからなかったという結論に至った。それで、今回の本が出来上がったわけです。

 成田 いま私たちは箱根にある養老さんの別邸でお話ししているわけですが、部屋にはこれまで採集された虫の標本が並んでいます。虫に対しては、「わかりたい」という気持ちは持たないものですか?

 養老 全然ない。「この虫は一体何を食うんだろう」と具体的な疑問が出てくることはあるけど、それは虫が付いている葉っぱを調べればすぐにわかります。なんでその葉っぱなのかは全然わからないけど、わからないなら、それでいい。

 わからないと気が済まないというのは、気が済まないだけのことで、それなら気を散らせばいいんです。私は気を散らすために、虫捕りや日向ぼっこなど、いろいろなことをしています。