17歳で主演した映画のヌードシーンでは…
17歳で主演した映画『人形嫌い』は三原のキャリアの次の転機となった。
三原は、実の兄(奥田瑛二)に対して恋愛感情を抱き、中年男性(前田吟)と初体験を果たす主人公の日樫もえ役を演じた。役と同じ17歳の心情を表現した芝居は評価されたが、観客が期待したヌードシーンは別の女優が演じるいわゆる“吹き替え”だったため、批判もあがった。
その後も『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』などの時代劇や2時間サスペンス・ドラマに続々と出演。古巣となった『3年B組金八先生』シリーズにも同じ役で出演し続けた。
ブレイク後も東映制作の『電子戦隊デンジマン』(’80年)や『太陽戦隊サンバルカン』(’81年)などの特撮ヒーロー番組に出演し、テレビデビュー作となった『スパイダーマン』の恩返しをしているところに、三原の律儀さも垣間見える。
18歳頃からは歌手活動も本格的にスタートし、歌手としての同期には松田聖子や河合奈保子がいる“当たり年”だった。三原は歌手としても成功し、「横浜銀蝿」のTAKU作曲の「だって・フォーリンラブ・突然」がヒットすると、つづく「ホンキでLove me Good!!」で『第33回NHK紅白歌合戦』にも出場している。
筆者はこの頃三原のファンクラブに入っていたが、同期デビューの松田聖子や河合奈保子と比べると三原はアイドルというより、「本業は女優」というイメージが強かったと記憶している。
20歳の誕生日に芸名を本名の三原順子から三原じゅん子に改め、さらに“JUNKO”というアーティスト名でハードロックバンドのボーカルを務めた時期もある。
23歳で突然レーシングドライバー活動を開始
23歳で国際B級ライセンスを取得してレーシングドライバーとしての活動を開始したときも世間を驚かせた。ツッパリ→ハードロック→レーシングドライバーという転身はイメージこそ一貫しているものの、アイドル・女優絶頂期だった当時の芸能界では異彩を放っていた。
全日本ツーリングカー選手権、全日本GT選手権などに次々と参加し、レース中の事故による骨折も一度や二度ではない。後には全日本GT選手権に参戦したTEAM MACHや、二輪(オートバイ)のレースチームで監督を務めるほどモータースポーツにのめりこんでいった。
以来、私の中で彼女は“突然新しいことをして世間を賑わす人”というイメージが固まった。そしてその通り、以降も三原は数年おきにさまざまな形で世間をアッと言わせていくこととなる。