2023年8月6日。我らが主将、佐野恵太選手に代打が送られた。多くの人にとって、衝撃的な起用だったであろう。佐野選手の代打として登場したのは、楠本泰史。彼もまた、並々ならぬ想いでその打席に向かった。

 今シーズン、彼はそのバットでベイスターズの窮地を何度も救ってきた。優勝に向けて、彼の力が必要なのは言うまでもない。今回は、代打の切り札的存在として活躍する彼の一打席に込める思いやプロとしての在り方、そして、そんな彼に浄化してもらったある人物のお話。

楠本泰史 ©時事通信社

いい意味で変わった楠本泰史の姿があった

 私の携帯に彼から電話がかかってきたのは、2022年の秋季キャンプが始まってしばらくした頃だった。久しぶりの連絡に、何かあったのかと少々身構える私をよそに、彼の第一声は「久しぶりやん! なにしとん!」であった。ちなみに彼と私は同期であるが、私の方が4学年上である。良くも悪くも、何も変わってないなと返すと『変わったって言われるのが一番嫌やから、いい意味で変わらずおりたいと思ってる』のだと、ちょっとかっこいい声で教えてくれた。

ADVERTISEMENT

 用件を聞いていくと、ちょっと時間があったから電話してみた、との事だった。かわいい奴である。野球はどうや?と問いかけると、先程までとは打って変わって、真剣なトーンで「もうやるしかないから、めちゃくちゃ練習してる。今までが手を抜いていた訳じゃないけど、めっちゃ本気でやってる」と答えてくれた。その後、何かの記事で楠本が一番練習しているんじゃないか、という内容を見かけたので、相当な練習量だったのであろう。彼の2023シーズンはこの時から始まっていたのかもしれない。そして今シーズン、彼は代打の切り札的ポジションで活躍している。

 その電話から半年ほど経った頃、あらためて彼と電話することになった。今シーズンの活躍について話を聞かせてもらうと、「チャンスの場面で代打に送ってもらえるのは意気に感じるよ。それをわかった上で言うけど、やはりレギュラーという立場になりきれていないことから目を逸らしてはいけないと思う」と、複雑な心中を教えてくれた。

「チームが勝つのは嬉しい反面、やっぱ悔しさもあるのが正直なところ。もちろん全部自分が招いてることやから、結果出すしかないんやけどね。あと、若い時の何が何でも一軍にしがみつくみたいな感覚とは全く違う感じで毎日過ごしてるかな」と続けてくれた。もう少し話を聞いていくと、そこにはいい意味で変わった楠本泰史の姿があった。

「生半可な気持ちではやってないよ」

 何が何でも一軍にしがみつく、当たり前だが、それを求められる立場の選手には余裕なんてものは殆どない。いや、全くないと言っても過言ではないだろう。その時の彼は、おそらく自分自身の事で精一杯だった。しかし、今の彼は違う。彼が今打席に向かうその時、彼は多くの人に思いを馳せている。

「投手の代打じゃなくて、野手の代打のケースも少なくないから。自分だったらどう思うかってめっちゃ考える。実際、自分が代打を出されたら、野手として悔しいと思うし。しかもさ、俺が代打で出て、凡退してきたら、代打を出された選手は、あー俺だったらなあって思うかも知れないじゃん? だから、生半可な気持ちではやってないよ。そんなんじゃ失礼すぎるし」

 私は現役時代、全く成績が出なかったので常に自分のことで精一杯だった。他人の思いを汲む余裕なんてなかった。彼の言葉を聞いて、何か大切なことに気がついたような気がした。そして彼の覚悟は気持ちの面だけではない。行動の面でも生半可なことはできないという。

「スタメンかそうじゃないかで準備を変えることはないですよ。自分のやれる事をやり切って試合に行くだけ。こいつでダメなら仕方ないと思われる人にならんと。そうでなきゃ、野手の代打には行っちゃいけないと思う。特にクリーンナップなんてチームの顔だからね」

 プロ野球選手は個人事業主である。それでも、誰かを思いやる事、自分の為だけではなく、人の思いを汲むこと。成績が出なければ明日の仕事は保証されていないこの世界で、誰かを思いプレーする事。生き残るという視点からすると、それが必ずしも正解ではないのかもしれないが、私はそのままの楠本泰史であって欲しいと強く思った。