彼にとってのこの10年は「悔しさとは違う、怖さ」との戦いの日々でもあったはずなのだ
それら膨大な量の過去記事のなかで、平沢大河、安田尚憲、藤原恭大のいわゆる“平安藤原”を差しおいて、もっとも目を引いたのが、浦和学院時代の小島和哉だ。
彼もまた、済美・安樂智大(現・楽天)や前橋育英・髙橋光成(同・西武)とともに“BIG3”と称され、高校2年時、2013年の春センバツでは、甲子園優勝投手にも輝いた世代屈指のスーパースター。
同年夏の甲子園1回戦。5年おきの対戦でこの夏も話題となった仙台育英戦での9回裏、無念の降板劇(結果は10-11でのサヨナラ負け)は、高校野球きっての名場面。熱中症で左足を痙攣させながらも、森士監督(当時)の交代指示にかぶりを振る彼の姿を覚えている人も多いだろう。
ぼくの食指が動いたのは、一躍彼を“全国区”にしたそんな高2の夏から1年後。県大会の3回戦で敗れて、部活を引退。早大進学を決めた直後の森監督との対談記事(『輝け 甲子園の星』15年1月号)。
同記事では、最後の夏に監督と甲子園まで“二人旅”をした様子などを、終始なごやかに話しながらも、2年夏の敗戦から、一時は燃え尽き症候群のようになっていた小島が「何もしていないのに過呼吸で2度、3度、倒れた」ことにもサラッと言及。17歳にして“優勝投手”の肩書きを背負うことになった彼の受けた重圧の大きさを、あらためて知ることになったのだ。
当たりまえのことだけど、プロ野球選手にまでなれるのは、数多いる高校球児のなかでもほんのひと握り。彼らのほとんどは、凡人のぼくらが想像もつかないような苦悩や葛藤を抱え、しかもそれを乗り越えて、プロの大舞台に立っている。
今シーズンの小島は、8月13日の西武戦で6勝目をつかむまで、およそ3ヵ月間も白星から遠ざかった。序盤は快調に飛ばしていても、中盤あたりで唐突に崩れて大量点。どんどん防御率を悪化させていく彼のことを、ぼくらは「頼りない」だの「またか」だの、散々好き勝手に言ってきた。
だが、そんなこと当の小島が、きっと誰よりも身に染みてわかっている。くだんの記事、仙台育英戦での敗戦を、森監督が「あの試合で(小島は)悔しさとは違う、怖さを初めて知った」と評したように、彼にとってのこの10年は「悔しさとは違う、怖さ」との戦いの日々でもあったはずなのだ。
「悲劇のヒーローで終わってもしょうがない。負けて慰められているままでは進歩はない。やっぱり勝って応援してもらえる選手にならないとダメだと思う」
「周りを自分の力で変える。“革命”を起こす。その覚悟が必要だと思っています」
あの仙台育英戦を振り返って、当時の小島が記者に語った言葉(『輝け 甲子園の星』13年11月号)は、まさにいま現在の彼にも当てはまる。
10年前、甲子園を沸かせた逸材左腕は、時を経て、ロッテに欠かせない投手陣の柱になった。あの選手ファーストな吉井理人監督が、彼にだけはめずらしく突き放した物言いをするのも、エースである彼への期待の裏返しにほかならない。
独走態勢を築きつつあるオリックスにここから追いつくのは正直、至難の業。“秋ロッテ”発動で、どんなに劇的な帳尻合わせができたとしても、「優勝」の二文字は遠いだろう。
でも、たとえできなくても、せめて来季以降のワクワクを。世代の頂点からしか見えない景色。それを知る小島和哉の起こす“革命”を、この先もぼくは信じたい。
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