10代のジャニー氏と大作曲家・服部良一氏の絆
笠置シヅ子は1950年に服部氏と連れだってハワイやロサンゼルスなど米国巡業を成功させている。ロスの公演先となったのが「高野山ホール」で、ここはジャニー氏の父親が米国別院の主監を務めていたこともある高野山真言宗の直営の会場だ。
日本からはるばるやってきた笠置と服部氏のために、こまごました買い物やお世話をしたのがジャニー氏だった。日本からの巡業も多かったこのホールで、ロスの高校を卒業するまでの間、いわゆるボーヤやステージボーイと呼ばれるような手伝いをしていたのだ。甲斐甲斐しく働く10代のジャニー氏と、大作曲家・服部良一氏の関係はそのときから始まった。
これがその後、息子やその友人への性加害行動へと繋がるスタートポイントとなった――。
ジャニーズの公演では、最近でも服部良一氏作の「胸の振子」や「青い山脈」、「東京ブギウギ」などが脈々と歌い継がれている。亡くなった長男・克久氏もジャニーズ関連の仕事は多かった。長く深い「両家の付き合い」のあらわれでもある。
「父の通夜の晩に息子を狙っているジャニー氏に気づいた」
「30年前の良一さんの葬儀でジャニー氏は親族席に座り、その年の紅白歌合戦では、少年隊が『服部良一メドレー』を歌いました。良一氏の愛用したピアノは、いまもなおジャニーズ事務所に大切に置かれています。
それほど関係の深かった服部良一さん本人が、ジャニー氏の行動を知っていたかどうかはわからない。でも、息子の吉次さんは、『父の通夜の晩に自分の息子(良一氏の孫)を狙っているジャニー氏に気づいた』と言っていて、恐ろしい展開となりかねなかったわけです。
数多くの元ジャニーズタレントが声をあげている今、“声をあげられない被害者”も相当数いるであろうことは想像に難くないでしょう。NHKの朝ドラで素晴らしい配役をゲットした草彅に対して、視聴者からの“色眼鏡”だってありえるかもしれない。
なにより笠置シヅ子の人生を描くのに、アメリカ公演の成功がひとつの山場となるのは間違いない。そこに居合わせたはずのジャニー氏と、服部さんを演じる草彅の存在を重ねると、いったいなんという因縁なのかと思います」(前出・クリエイター)
日本の芸能史における「光」と「闇」が、期せずして朝ドラ「ブギウギ」で交差することになる。