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子どもを持たなかった理由

 私が子どもを持たなかったのは「自分の希望」だったと述べた。

 とはいえ環境的要因がゼロだったとは言えない。私が仕事を始めたのは1959年で、男女雇用機会均等法が施行されるのは1986年である。それまで、女性が子どもを持つことは基本的に、キャリアの中断を意味した。

 ただ、環境的要因以上に、個人的な理由が大きかった。大きく二つあって、一つには、人間の生というものへの疑問が子どものころからあったのだ。

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下重暁子氏 ©文藝春秋

 小学生のとき結核を発症した私は、2年間、学校に行くこともできず、疎開先のホテルの一室に隔離され、寝ているよりほかない生活を送っていた。毎日微熱が続いているような状態だった。ちょうど戦時中で、我が家は縁故をたどって奈良県に疎開していた。

 敗戦後、通っていた大阪の小学校に戻ったら、結核は治ってしまった。その後も体育の時間は見学をしていたことを考えると体は弱いほうだったが、仕事を始めてからは、病気で休んだことはない。

 つまり体が弱かったから子どもを産まなかったわけではないのだ。

 結核で一人だったころ、“生れ出づる悩み”を考え続けていたことが、私の人生に大きな影を落とした。

 画家を目指していた父の本棚には画集のみならず、芥川龍之介や太宰治などの文学全集が並んでいた。それらを一冊ずつ手に取り、丹念に眺めるのが私の日課だった。小学生に内容が理解できたとは思えない。だが、繰り返し字を追っているうちに、生の秘密を文学のなかに嗅ぎ取ったようだ。もともと持っていた私の感受性が、呼び起こされたと言えるかもしれない。感じやすい年齢ということもあっただろう。

 なぜ人は生まれてくるのだろう。

 人は自分の意志で生まれてくるのではない。親の意志はあっても、そこに私の意志が存在しないことに、私は疑問と抵抗を感じた。

 自分の意志ではないこの生に、喜びよりも不思議さを、感謝よりも不気味さを感じるようになったのだ。

深まる「なぜ私は生まれてきたのだろうか」という悩み

 戦争が終わると、軍人だった父は公職追放になり、民間の仕事は何をやってもうまくいかなかった。兄と父は折り合いが悪く、危険を察知した母が、兄を東京の祖父母のもとに預けた。傍から見たら私は、結核も治り、元気に学校に通っている子どもに映っただろう。しかし、そうした家族環境のなかで、「なぜ私は生まれてきたのだろうか」という悩みを深めていった。

 思い返せば、私は逆子で生まれた。首に幾重にもへその緒を巻きつけていて、危なかったそうだ。大袈裟かもしれないが、誕生の仕方自体が、私のペシミスティックに傾きがちな性質を予言していたようにも感じる。

 この世に生を享けたことを無条件で喜べないし、感謝できない。

下重暁子氏 ©文藝春秋

 その私が、生の連鎖をつないでいいものだろうか。

「考えすぎないで、産んでしまえば大丈夫よ。案ずるより産むが易しよ」

 私の悩みに友人たちは笑ったが、私は自分が納得しないと動けない人間だ。自分の生に納得していないのに、新たな生を作ることに納得できなかった。これが私が子どもを持たなかった理由の一つである。